僕たちの失敗(後篇)〜久保新二センズリ回想録

夫である向井寛の『ブルーフィルムの女』にネグリジェリリーフなどもしてる内田高子さんのトークが終わり、観客の盛大な拍手が鳴りやんだとき、司会進行の鈴木義昭氏は”来月トークもありますが、今日の映画にも出てた久保新二さんがいらっしゃってるので、もしよかったら”と、久保新二の登壇をうながした。一言二言挨拶がてら喋ってもらおうという腹だったのだろうが…


袖から現れた久保新二は、いきなり”オイッス!”と言いながら、股間の手を激しく動かしエアセンズリをかきながら登壇!!!!
これは言うまでもなく山本晋也カントクの「未亡人下宿」シリーズでの主要キャラクター、留年とセンズリばかりしている<国士舘大学の尾崎君>なのだが、久保新二ってもう還暦過ぎてんだぜ、それなのにこのバカバカしいことこの上ない登場パフォーマンス!
突然のことで呆気にとられたが、すぐさま久保チンの生センズリに狂喜乱舞。さっきまでの内田さんのときの和やかな雰囲気は一体どこへ消し飛んだのか、観客たちのボルテージが妙な方向へと一気に上がる。
しかし1978年に発行された山本晋也『ポルノ監督奮戦記』など読むと、この頃から久保チンはセンズリをかいてたらしい。大阪駅前の東梅田日活で「痴漢と下宿屋のシリーズ特集」なる企画があったとき、ゲストとして舞台に上がるなり、ズボンに手を入れてプカプカ動かしたもんだから、観客は大バカうけ。それから久保チンは司会の桂サンQとワイセツ漫才を始めたというのだから、会場が異様な盛り上がりを見せただろうこと想像するに難くない。


ちなみに「桂サンQ」とは現在の「二代目快楽亭ブラック」のことで、師匠であった立川談志の通帳から黙って金を引き出し競馬に使ったことで1972年に破門されて、このときは上方の桂三枝のところにいた。その後、1979年に立川流に復帰。1981年には「立川レーガン」と名乗り『お笑いスター誕生!』に出演、4週目で「立川丹波守」と改名し、ポルノ男優をあつかった下品なネタをやる。上野本牧亭でおこなわれたという「立川丹波守」改名披露でもこのネタをやったのではあるまいか?この改名披露のときのゲストが久保新二とあるポルノ女優で、彼らのシロクロ本番ヌルヌルショーが席亭の逆鱗に触れ、立川丹波守はここを永久追放される。しかしこんなことでは全く懲りないこの男は、1985年に「快楽亭セックス」改名披露をおこなった際、またもやゲストに久保新二とAV女優を呼び、彼らにSMショーをやらせ、席亭を激怒させそこを永久追放されている(かように久保チンとブラック師匠の関係は深く、4/11はこの話題も出ればいいなと密かに思っている)。


閑話休題。また2007年にポレポレ東中野でおこなわれた日活ロマンポルノ上映記念前夜祭「めぐりあい同窓会」でも、久保チンは例のセンズリパフォーマンスで登壇し、司会の人に”今日はそういう場じゃなくて上品な集まりですから!”的なことを冗談っぽく注意されていたそうだ。それでも久保チンは自分がやりたいだけやったら、それで満足そうだったという。


と、久保チンのセンズリの話が少々長くなったが、登壇し内田さんと挨拶を交わした後も久保チンのテンションは一向に衰えず、”この作品(『淫紋』)、俺まだ18だよ。劇団ひまわりにいたときだもん!”と言って客を笑わせてから、矢継ぎ早に内田さんに面と向かってこんなことを言い出した。

劇団ひまわりにいた頃、電信柱に貼ってあった内田さんのポスターをみんなで剥がして、こうゆうおねえさんと一発やりてえなぁー!と言ってしこしこした。まさか共演するとは思わなかった。びっくらこいた”と。

このときの内田さんの表情ときたら(笑)二人は完全に水と油であったように思うが、それでもまだ久保チン節は止まらない。
”あー、今日出てた女郎屋の一星ケミ、俺、この作品の後に一星ケミと同棲したんだもん”
で、またもや会場大爆笑。続けて、
たこ八郎の(ボクシング時代の)トロフィーやら盾を(一星ケミの)親が全部持ってって処分しちゃって、だからたこ八郎の追悼テレビ番組にはそれらがワンカットも出てこないんですよ、あははは”
と言って、(たぶん話がよく飲み込めてないと思われる)内田さんからは「あなた悪い人ね」と言われたりしていた。
まあ久保チンは早口で、たこ八郎のエピソードなどは括弧でくくった言葉が抜けていたりするので、なんのことを言ってるのかさっぱりだったろうが、丸茂ジュン『性豪 ピンクの煙』などを読むと、そこへ到るまでに欠落している経緯やエピソードが埋まり、全て理解できる。この本は久保新二へのインタビュー取材をもとに虚実綯い交ぜにして書かれた、ポルノの帝王・久保新二を主人公にした官能小説で、虚の部分はともかくとして、実の部分、久保チンの発言や回想等はひどく興味深く、その意味で紛うことなき名著。つまり、一星ケミとの同棲、セックス、自殺未遂、破綻、久保と一星とたこ八郎のヘンテコな三角関係などこれに詳しい。
一星ケミなら「星野レミ」といったぐあいに名前は変えられているが、語られている内容は赤裸々だったりするので、「安本エミ」こと安西エリの例(何十人ものポルノ女優と肉体関係を持ったという告白手記を実名で週刊誌に書き、その中の一人安西エリから名誉毀損で訴えられたこと。この件に関しては、野上正義が『ちんこんか ピンク映画はどこへ行く』で久保チンに対して苦言を呈し、憤っている)もあるし、他人事ながら平気なのかなぁと気になってしまう。


内田さんにたしなめられ、話題を変えるかのように久保チンは、
”4月11日、ざっくばらんに下ネタ専門で行きますんで、よろしくぅ!!”
と自分のトーク日の宣伝をぶって、颯爽と舞台を後にした。
久保チンが登壇した時間はおそらく三分程度だったと思うが、最後の最後に出て来て全部かっさらっていってしまった。ほんと嵐のような三分間。ひまわりのときはあんなにいい感じの美青年だったのに!あ、でもこのときから下ネタ全開か、この人は!



トーク後のロビーに居残って、知人らともっぱら久保新二のハイテンションなラリルレロっぷりについて話す。

KさんがCDに内田さんのサインを貰っていたので、僕も貰おうかしらんとバッグの中から『別冊キネマ旬報 ピンク映画白書』(1969年発行)を取り出す。ページをぺらぺらめくるものの、おかしい、いるはずの内田さんのページが出て来ない。慌てた僕は本の表紙を指差して”この人は内田さんですかねえ”などと皆に相談を持ちかけた。だが、”ちょっと感じが違うんじゃない。内田さんにこれ内田さんですか?と聞いてみたら(笑)”とか言われたので、一瞬ほんとに内田さんと一緒に本をめくりながらウォーリーならぬ「ウッチーを探せ」をやろうかと思ったが、まあ失礼かなと思ったので(当たり前だ!)、サインをねだっている連中を遠巻きに眺めていた。


すると今度はHさんが”あれ渡邊監督じゃない?”と言い出した。見遣ると、若い頃の顔写真しか見たことなかったが、確かに獅子プロの若い衆渡邊元嗣監督に違いなく、身長が高いとは聞いていたが、実際デカかった。声をかけたくても恥ずかしく、もじもじしてそれができないHさんと僕。お互いに”どぞどぞ”と特攻権を譲り合う。そのうち大きな声でそれとなく気付かせようという作戦となり、ちょうどピンクスクールで『ねらわれた学園 制服を襲う』を観た直後だったので、”ケン玉がさー!”とわざとらしく言ってみるものの渡邊監督がこちらに気付く気配は全くナッシング。
あとでTさんが渡邊監督に声をかけたというのを知り、”い、いつのまに…”と嫉妬の炎をほんのり燃やした。


最後までロビーに居残っていたので、どういうわけか久保チンと少し話す。わけは恥ずかしいので教えられぬが、久保チンに”俺そういうヤツ好きだよ”と気に入られ(いや大袈裟)、いまから歌舞伎町の俺の店行って始発まで飲みゃいいじゃんとしっかり営業される。お店の名刺を貰うが、それがまた”どこぞのファッションヘルスじゃい!”と見紛うばかりのピンキーな名刺、嗚呼、あいうえお、あいうえお。



<エピローグ>
帰宅後、おかしいなぁと思いながら『別冊キネマ旬報 ピンク映画白書』をもう一度ぱらぱらやってると、さっきは見つからなかった内田さんのページ、しかもトークでちょうど話題にのぼった!内田さんが観たいと言った!内田さんがデビ夫人(*1)を演じた!『日本処女暗黒史』(なんでも向井寛のアクション映画らしい)のページが見つかったではないか!!!!

ここにサインして貰えれば嬉しかったのだが、いやそれよりもこれを話題にしてウッチーに話しかけることができたのに…と、ただただそれだけを悔やむばかりだった。
みぎめのおたんこなす!
そんな失意の中、突然、ふとある想念が脳裏にわき上がる。
思えばトークで内田さんが登壇するときにあまり品のよろしくない指笛をピューピューと吹いていた輩、
”あれ、久保新二だったんじゃねえのかっ!!!!”
あの場であんなことできる身のほど知らずは久保新二以外に有り得ないという考えに到ったとき、我ながら自分の探偵の才能が怖ろしくなったのだった。



(*1)
デビ夫人をあつかったものには、西谷純子を主演に配した武智鉄二『ビデ夫人の恋人』というのがある。1971年洋画系で公開予定とあるが、日本映画データベースを見ると、どうも後に『スキャンダル夫人』と改題されて1973年に公開(?)された模様。
「ビデ夫人主催の乱交パーティーを皮切りに、ミチコ妃殿下、皇太子殿下、首相夫人、警視総監、樺美智子らが登場、死姦、近親相姦、レズ…」
民族主義とは何かをつきつめて考える映画です。体制を突き破る性の解放と天皇制の問題を提起したい」
画像下は、荒木一郎と應蘭芳。

 僕たちの失敗(前篇)〜内田高子トークショー回想録

migime2009-04-04


3月14日、この日はラピュタ阿佐ヶ谷のレイト上映「60年代まぼろしの官能女優たち」の初日で、トークゲストは『淫紋』の主演女優である内田高子さんだった。


前日までは、朝一とは言わないまでもお昼ぐらいにラピュタで夜のチケットを買い、シネマヴェーラで『アレクサンダー大王』を観て、再びラピュタに舞い戻る予定を立てていたが、常に原チャ移動の僕としては雨が降っているというだけですぐにそれが狂う。
結局雨は15時ぐらいまでやまなかったので家を出ることができず、予定変更を余儀なくされた。結局目黒図書館でCDを借りたあと、図書館の近くを走る環七を北上、渋谷に寄って友人と少し談笑したのち、さらに環七を北上、青梅街道を西へ、ラピュタ到着。


この日レイトで掛かる向井寛の『淫紋』、正直に言えば、若者達でごった返すかと思われたピンクスクールでさえあんな空いてる状態なのに、この明らかに地味な『淫紋』に一体どれだけ人が集まるというのだ、いやぜってえ来ねえなと高を括っていたのがそもそもの間違い。いや映画がどうこう言うよりも内田高子の集客力が凄いと言った方が正しいか。とにかく僕は見誤ったのだ。上映1時間ちょい前に着いたにもかかわらず、すでに補助席との宣告。うそーん!補助席やだー!
”まあ入れるだけいいですよね…”と自分への言い聞かせの意味もあるのだが、チケット売りのラピュタボーイに同意を求めるように話しかける。


失意のなかロビーでぼんやりしていると、久保新二がロビーに登場!位置関係が離れていたので話してる内容などは聞こえなかったが、見た目はかなりダンディ。その輪の中で話してる異形の男が気になる。「60年代まぼろしの官能女優たち」の企画には(ラピュタにも山口清一郎に特化した著書『日活ロマンポルノ異聞』が置いてあったが)鈴木義昭が絡んでいると人から聴いていたので、そうじゃないかと思ったらやっぱりそうだった。この人の著書『ピンク映画水滸伝』はひどく面白く愛読している。ちなみに(僕はメイさんからも直々に貰ったが、と少し自慢を入れつつ)2007年8月号の「創」に掲載された「日活ロマンポルノ再発見」の記事もこの人。


『淫紋』上映開始。内田高子主演、監督は内田さんの旦那である向井寛。内容は、「子供を産むだけの道具」として封建的な旧家に嫁いだ(売り渡された)内田高子が、夫への献身、姑との確執、夫の弟(久保新二)による強姦、妊娠を経て、「女」として自己確立していく文芸物。1967年の映画だが、同年代のピンク映画に比べても明らかに裸の露出が少なく(おっぱい担当は一星ケミのみ)、また金沢の美しいロケーションを最大限に活かした画面の格調高い構図などを見るにつけ、なんだかもっと古い五社の映画のような錯覚がした。映画として面白いか面白くないかはまた別の話。ただ久保新二が内田高子を外で強姦するシーンは構図も演出もキレていて美しかった。


上映終了後のトークショー、もう一度声を大にして言うが”『淫紋』なんて地味な映画、誰も観に来ないだろう。そんなには混むわけはない”と高を括っていたのは大きな間違いで、内田高子さんの集客力たるや驚愕の一言、補助席どころか通路に座布団をひいて座る人々まで現れて、会場の空気が薄く感じられるほどの超満員。
司会進行の鈴木義昭氏にうながされて、楚々とした雰囲気で内田さんが登壇すると、会場は割れんばかりの大拍手。観客の中には、よほど内田さんの上品な雰囲気とは似つかわしくない指笛を”ピュー!ピュー!ピューゥ!”と吹き鳴らすあまり品のよろしくない輩がいて、”おいおい、そりゃねーだろ…”と内心思っていたのだが。


それはともかく、40年ぶりに「内田高子」として表舞台に立った御年66歳の内田さんは、一見してすぐさま素敵な歳の取り方をしたことが窺い知れる品性があり、そうかと思えば、ひとたび喋ればこれが実に溌剌としていて、ときにユーモア、ときに天然ボケ(*1)などを交えるお茶目な一面も見せ、会場を終始和やかな雰囲気にさせていた。
お歳は召されていても、かつての美貌の片鱗はまだなお健在。ちなみに内田さんは、1962年のイタリア映画『セクシーの夜』の公開にちなんで催されたネグリジェ・コンテストで1位になり、東芝レコードより”ネグリジェ歌手”としてデビューした経歴を持ち、ピンク女優時代は”ピンク界のソフィア・ローレン”と呼ばれていたのだ。またトークでのおはなしによると、あるときボンドガール・コンテスト(?)みたいなものが催され、五社から一人ずつ出場したらしいのだが(東宝浜美枝か)、何故か内田さんもそれに呼ばれて出たそうだ(きっとピンク映画代表ってことなのでしょうね)。
それはともかく内田さんは歌が好きで、デビュー前は建築会社のOLだったそうだが、建築現場の上の方で、一人でよく大声を出して歌っていたらしく、周りからは変わった人と見られていたそうだ。昔は舞台挨拶で必ず歌っていたらしいが、今回のラピュタではナマ歌の披露はなかった(ちょっぴり残念)。
しかし歌手ではどうもうまく行かなかったようで、その後、ピンク女優に転向。ピンク女優時代の話では、『淫紋』を観たあとでもあったのでその話(これは金沢で撮ったとか、予算がないので着物は自前、メイクも着付けも全部自分でやったとか)や、ピンク映画というもの自体知らなかったという話、当時のピンクと五社の隔たりの話、しかし日活映画や東映『徳川女系図』に出演してることからも五社に一番近かったピンク女優ではなかったかという話、『黒い雪』で黒人とベッドインして警察で調書を取られたときの話、前述のボンドガールの話、向井寛との出逢いからいつの間にか向井組の一員になっていたという話、夫である向井寛が設立した獅子プロダクションの人々(つまるところ結束力)の話、獅子プロ出身の滝田洋二郎アカデミー賞を取ったとき電話をした話、etc…
お姑さんとの生活で忘れる訓練ができた(一体何があったんだ…)とトーク冒頭に言っていた内田さんは、確かにピンク女優時代のことをすっかり忘れているようだったが、向井寛のデビュー作であり、向井寛との初めての出逢いだった『肉』について話をふられると、それがオムニバス映画であったことは覚えていた。なんでも鈴木氏によると、観たことのある年寄り連中はみんな『肉』がいいと口を揃えて言う傑作らしく、本当は『淫紋』ではなく『肉』を掛けたかったそうなのだが、現存するフィルムの音声に問題があり(映像はきれいだそうだが)、残念ながら今回は見送られたということだ。
さらに鈴木氏の”御自身の出演作で他に何か観たいのはありませんか?”との問いに、内田さんは”デビ夫人(*2)を演じたやつを観てみたい”と返答。壇上で二人がタイトルはなんでしたっけねー、うーん、うーん、なんてやっていると、客席から威勢よく”日本処女暗黒史!”の掛け声。世の中にはマニアックなファンがいるものだなぁと感心すると同時に、向井寛監督の『日本処女暗黒史』がますます観たくなったのでした。
また次週に掛かる小川欽也監督の『女王蜂の欲望』の話になり、こちらは『淫紋』とはまた違って内田高子は華やかなファッションモデルの役だと聞くと、内田さんは次週また観に来たいと言っていた。


夫の向井寛が昨年亡くなり(ものを言わない臓器がものを言ったときは手遅れでした。皆さんも気をつけましょうね。by高子)、三人の子供は自分の手を離れ、これからオファーがあるならば仕事(女優業)したい気持ちはあると高らかに宣言した内田高子さんに観客らは大きな拍手、拍手、拍手。
嗚呼、最後もきれいにしまって本当に良いトークだったなぁ、と思ったのもほんの束の間、この日のショーの幕切れまでには、まだもう一つ予期せぬ波乱が待っていたのだった…


<(後篇)につづく>


(*1)<内田さんの天然っぷり>
進行役の鈴木義昭氏は、1969年の「週刊文春」に掲載された神吉拓郎の「内田高子は高速道路の降り口を間違えて延々と回り道をしている」という文章を紹介した。ようするに、”ピンク女優の中で一番メジャーに近く、また十分そっちに行けるのにもかかわらず、まだピンク映画の世界をうろうろしている”というようなことを言った比喩だと思われるが、それを聴いた内田さんは「高速道路の降り口を間違えたことはいっぱいありますよ。当時はどこ行くにも自分で運転してたから」と即答し、それ以上内田さんに何もつっこめなくなった鈴木氏は何もなかったかのようにこの話題を流していた。


(*2)は(後篇)で。

 あなたと私の合言葉さようならピンクスクール、ありがとうピンクスクール

3/20、一ヶ月弱という短い開催期間ながらも濃密だったイメフォのピンクスクールの最終日(と言っても坂がしんどくて大して通わなかったが)に、小水一男『ラビットセックス 女子大生集団暴行事件』と福岡芳穂『制服監禁暴行』を観た。


すでにうろ覚えに等しいのだが、目当てだった『ラビットセックス 女子大生集団暴行事件』は若者たちの無軌道っぷりがアナーキー&パンクな青春ムービー(?)だった。

ヒロイン朝霧友香は団地の屋上でケイと名乗る浪人生と邂逅し、ひとことふたこと言葉を交わし、そのまま性器も交わしてしまう。青カンしてるところを団地のババアに見つけられ注意された二人は、佐野和宏率いるアナーキー軍団に復讐の手伝いをして欲しいと接触する。彼らは団地のババアを輪姦した後、車を盗み、海へ。その車がガス欠で動かなくなったので、そこに通りかかった車を強奪、運転していたジジイをふとしたことで殺してしまうが、しかし彼らは気にしない。楽しくやろうぜと、車を飛ばしてそのままどこかに走り去るのだった。

あらすじはこんな感じなのだが、冒頭に不良グループの後ろに貼られた『狂い咲きサンダーロード』のポスターが象徴するように、全編パンキッシュに若者たちの反逆を描いている。
彼らの敵は大人である。この映画に出てくる大人たちは決まって、(娘とのコミュニケーションよりも)金に執着していたり、社会性や秩序を重んじてるように見せる偽善者である。一方、ここでの子供たちは元よりそんなものに縛られてないならず者であって、一見無軌道でめちゃくちゃであるが、監督の筆致はそれを純粋で美しいものとして描いてるような向きがあって、その象徴的な例が、保坂和志演じるところの少し頭の足りない不良少年だろう。彼の奇声(それに伴うキチガイの動き)や、まだ薄暗いなか波打ち際のジープで乳繰り合ってる男女の周りで不協和音のように歌う「雨上がりの夜空に」など、そのまるで無垢な詩情に心ならずも感動してしまうのは一体何故か。

外人の曲は全くわからないが、この映画は全編、常にと言ってもいいぐらい様々な音楽が使われていて、例えば、団地のババアを輪姦するシーンではアナーキーが「団地のオバサン」をタモリ倶楽部的に絶叫し、そこにさらに誰が歌ってるのか知らないけどパンク風な「ザ・ヒットパレードのテーマ」(ヒッパレーヒッパレーキンタマヒッパレー♪に聞こえたのだが…違うか)が重なる。確か性交場面かと思ったが、RCサクセションのE!E!E!「キモちE」もかかり、若者たち反逆の図も相俟って、アナーキーな部分ばかりが目立つ感もあるが、小水一男ならではの詩情も見逃せない。

前述の保坂和志のシーンもそうだが、大体にして朝霧友香とケイと名乗る青年が初めて出逢うのも「雨の降る屋上」であり(小水脚本『ゆけゆけ二度目の処女』を想起してしまった)、女のなにしてるのの問いかけに、”雨見てたんだよ”と答える男などなにやら抒情的ではないか。ちなみに輪姦されて屋上に失意のまま一人取り残された団地のババアの上にも雨をそぼ降らせていて心憎い。

タイトルバックのクレジット表記も凝っていて、例えば『マル秘女郎責め地獄』が石畳に直接それを書いたように、ガードレールだとか、ナイフだとか、靴の裏だとか、その他さまざまなものに書かれた。しかも『女郎責め地獄』の場合と違って、こちらは文字の字体もサイズも色もバラバラで統一感がなく、この無秩序なクレジット表記(かっこいい)からして、すでに映画の内容を暗示していた。

しかしクレジット表記以上に、この映画でめちゃくちゃなのは映画文法的説明なしに、過去と現在が行ったり来たりするその時間構成だろう。観る前はまさかこんなめちゃくちゃだとは思いもよらなかったので油断して冒頭を見落としたが、試みに映画のシークエンスの流れを順に列記すると、まずその冒頭の【1】不良グループが新宿コマ前でたむろしている、するとシーンは【2】若者らが車で暴走(逆走!危ないよ!)に変わり、【3】朝霧友香一家のシークエンス、【4】ジジイと論争(?)する不良グループ、【5】朝霧とケイの屋上での邂逅→団地ババアに逆恨み→佐野和宏ら不良グループと行動を共にし海へ、【6】ジジイの車強奪・ジジイいたぶり・殺害、となる。
うーむ、説明がめんどくさくなってきたが、【2】と【4】は【6】の時間の中に含まれたエピソードであり、映画が進むにつれて、やっと時間が【2】と【4】に追いつくという構成。だから一見【1】から【2】の流れは(ジャンプカット気味ではあるけど)連続している時間に見えるが、実際は非連続。油断していて今となっては判別つかないけど、朝霧の有無で【1】は【6】の後の場合もあるのではないかと考えてしまう。って、ほんとどーでもいいことだが(つくづくつまらん…)。

映画の最後、いままでアナーキーに身を委ねることに消極的だった浪人生のケイだったが(”車を盗むと罪が重いよ”とか心配したり)、強奪した車のジジイが医者であり、その息子はどうせ金で裏口入学してるという思い込みから、急にジジイに対して陰険になり、結局最後はジジイを崖から落として殺してしまう(ババアは犯して、ジジイは殺せ!女子高生は暴行する側だった!)。しかしそんなことは意に介さず若者たちはさらに無軌道に生きるべく車で走り去るのだが、カメラは高所からその車の行方を追い、そのあとすぐ横にパンするのだが、そのとき映される道路標示のラストカットがベタだ。「Uターン禁止」。彼らはもう後戻りできないのだそうだ。


二本目の『制服監禁暴行』は、主人公が下元史朗だからそのはずしっぷりが絶妙で面白いんだけど、他の役者だと確実に寒々しくなると思った。ただ堺勝朗の「狂い咲きサンダーロード」っぷりには爆笑。さすが!下元史朗はこの映画で一度もサングラスを外さなかったなぁ。寝るときも。耳当てとかさ、「傷だらけの天使」のパロディでしょー。秋本ちえみと萩尾なおみも良かった。それだけ。



ピンクスクールで見たの数えたら20本(初見15本)。結局半分以下で、会員になる意味あったのか…という疑問も残った。


1.荒野のダッチワイフ
2.濡れ牡丹 五悪人暴行篇
3.ブルーフィルムの女
4.マル秘湯の町 夜のひとで
5.歓びの喘ぎ 処女を襲う
6.特殊三角関係
7.ラビットセックス 女子大生集団暴行事件
8.痴漢電車 下着検札
9.地獄のローパー
10.ねらわれた学園 制服を襲う
11.制服監禁暴行
12.愛奴人形 い・か・せ・て
13.菊池エリ 巨乳
14.アブノーマル 陰虐
15.痴漢電車 さわってビックリ!
16.白衣と人妻 したがる兄嫁
17.味見したい人妻たち
18.痴漢電車 びんかん指先案内人
19.超いんらん やればやるほどいい気持ち
20.わいせつステージ 何度もつっこんで


<極私的初見ベスト4>
9・10・13・14


14『アブノーマル 陰虐』を観て、”時代は佐藤寿保だな!”と思って都内のレンタル屋でビデオを借りまくっているが、とりあえず今は何も言えない。10ねらわれた学園 制服を襲う』と13『菊池エリ 巨乳』は前にちょっと触れた気がするのでパス。


9『地獄のローパー』は個人的には今回観た中で一番ヒットした。僕が観た回には下元史朗さんも御自身の”地獄のローパー”っぷりを鑑賞しに来たらしく、それを見てクスクスと忍び笑いをしていたそうだ!
確かに『地獄のローパーは本当に面白すぎた。一体どこから書き出して行ったらよいのかわからぬが、とりあえず下元史朗演じる地獄のローパーがカッコよすぎ!!!!
この悪魔のサディストはロープを投げただけでどんな女でも瞬時に緊縛&調教する超絶美技の持ち主で、例えば股間に繋がったロープを張ってピンとはじくと女は即昇天する。
だいたいにしてロープをピンとはじくと逝くというのはお茶の間を風靡した「必殺仕事人」三味線屋勇次(!)のパロディなんだが、例えば池島ゆたかはSM倶楽部を経営してるけど、でもそれ実は表の稼業で、裏では地獄のローパーを抱える、「必殺仕事人」でいうならば元締めみたいなもん(貫禄はナッシング!)をやってる。その観察眼で女に怨みを持つ客を見極め、裏の仕事の営業し依頼を受ける。ここでいう「裏の仕事」とは殺しなどではなく依頼人が憎む女の調教、SMでいうところの馴致の段階はすっ飛ばして隷属させてしまう。マカロニウェスタン調の音楽、仕事(女との対決)へ出掛ける前に燭台の蝋燭の火をふっと吹き消す動作とかも必殺シリーズを意識している。
またこれは西部劇をやってもいて、ローパーはガンマンが拳銃を抜くようにホルダーから縄を抜くとか、その辺の日本の住宅地での決闘が何故か西部劇風の田舎町でのそれに見えるとか(ヒューと風が吹くS.E.)、夕陽を背にして決闘に向かう地獄のローパーのショットとか超かっちょええ!!!!
ホモの外波山文明の依頼で、「ボンバーズ」という女暴走族にさらわれた恋人の美少年を助けに行くローパー。またそのボンバーズのアジトまでの道のりが険しいこと!森の中で野宿しながらやっと辿り着くって一体ニッポンのどこですか!そしてアジトまで着くと、”ここからは俺一人で行く”とローパー一人で乗り込む、ランボーのようにゲリラ的に一人一人縄にかけていくのだが、と言ってもボンバーズのメンバーは4人しかいなくて、それやるのは最初の一人だけなんだが。二人目に使った縄技などは実相寺昭雄『屋根裏の散歩者』よりも早い、蜘蛛の巣のように張った縄に捕らわれるブー女。ボンバーズのリーダー真知子は拳銃を一発二発三発とローパーに向かって撃つが全然当たらず、蜘蛛の巣の縄に当たって縄が一本ずつ切れていく。その蜘蛛の巣は縄が一本切れるごとにブー女を体を締め付ける仕掛けになっていて、”あと一本切ったら、この女は落ちるぞ(イクぞ)”と言ったところで仲間を見殺しにはできないと真知子は拳銃をおろすのだが、そこでローパーは”そうじゃない、おまえはこのブー女に嫉妬してるんだ”と真知子の心の奥底を喝破する。
なんだかいちいちこんなこと書いてると埒があかないので(めんどくさくなってきたので)端折って書くと、このあと負けたままじゃいられないと言う真知子と決闘になるが、難無くローパーが真知子を縄で撃破、真知子はローパーを愛していると言い出すが、ローパーはクールに”おまえは俺じゃなくて縄を愛しているんだ””俺は博愛のサディストだから一人の女のものにはならない”と返す。とぼとぼ帰る真知子、それを急に追い掛けるローパー、橋の上で「マチコ巻き」にしている真知子に向かって”君の縄”と縄を差し出すとき、バックには織井茂子が歌う「君の名は」!!!!この往年の名作のパロディで会場はどっと沸いた!!!!このタモリ倶楽部的な音楽の重ね、駄洒落をやりたいためだけにボンバーズのヘッドの名前を「真知子」にしたのか!とめちゃくちゃ感心した。まさに滑り知らずの片岡ギャグ!!!!
最後は何故かナチス風の特攻服で決めている早乙女宏美との対決(裸サスペンダーならシャーロット・ランプリングだったのに!)。この映画、シナリオ題に『地獄のローパー2』とあるように、どうも1があったようで、早乙女の言によるとローパーの目を潰したのは彼女みたいなのだ(嗚呼、1が激しく観たい!)。戦いはローパー危うし!でも心眼、それを博愛の精神と言い直してもいいが、それによって早乙女を縄で捕らえる!そしてこの映画の最大の見せ場のクレーン吊り!!!!この女の宙づり(またその後の吊されながらのセックス)が薄暮に映えてなんと美しいことよ!感動した!!!!しっかし、ローパーが決闘場にクレーン車で乗りつけるとこなんざカッコよくて、またこのあと観た『味見したい人妻たち』が映画の中に常に含みを持たせてそれを丁寧に拾って行く運びになってたのに反して、なんなんだこの超唐突ぶりは!!!!(というか全編「唐突」の連続だ!)と心が震えた。
と、とりあえず思いつくまま『地獄のローパー』について書いてみたが、全然ダメだ。これほど面白いことが書けそうな素材(映画)を前にしながら、自分の書いてることが全然面白くなくて落ち込む。これではせっかくいい脚本を得てもそれをうまく料理できないダメ監督みたいなもんだ(違うか)。まったく残念です。でも映画は本当に本当に面白いので機会があったら観てみてください。



地獄のローパーの後に観た『味見したい人妻たち』はいまだ咀嚼できていないが、常に含みを持たせるカットが印象的だったように思う。
ファーストシーンの美術室、結婚のため学校を辞めるという女教師の視線が落ち着く先にはきれいな顔した男子生徒がいて、これでこの二人がこのあとどうにかなるというのは当たり前すぎるほど当たり前なわけだが、「一年後」というスーパーのあと、人妻になったヒロインはクロスワードパズルをやっている。「オシドリフウフ」とマスを埋めたあと鉛筆の芯がポキッと折れる。この開巻で”ああ、夫婦生活はうまく行ってないんだ”と匂わし、旦那が出張すると言えば”ああ、この旦那、他に女いるな”と思い、旦那がはちみつを出張に持ってこうとするとこでは”ああ、プレイに使うんだな”と思い、人妻が犬に枯れ葉を食わせたり、人妻のどことなく満たされてないような表情を見るにつけ、”いつ不倫相手の女が出てくるんだろうなぁ”なんて思っていたら、そんな事態にはいっかなならず(回想シーンでついに来たか!とさえ思った)、むしろ夫婦の仲は良くて意表を突かれた。でもそこにはやっぱり何かに満たされてないような人妻がいたが。
含みだけ提示しておいてその後を拾って行かないと僕みたいに勘違いしてしまう輩がいるためだかどうかは知らぬが、いちいち含みの説明がなされるような気がした。美術室での視線から始まり、例えば「トルコ行進曲」がたどたどしくなれば隣のカップルはセックスを始めてるのだし、犬に対する行いは男子生徒を飼う行為に繋がり、片耳が聞こえないという告白は内緒話に繋がり、隣のカップルを使ったオフレコ遊びは後に男子生徒の心象を代弁させる含み・仕掛けになってるんだし、ラリって何かに対して気持ち悪いと言った瞬間に部屋を出ればそれは妊娠なのだが後にちゃんと説明し、しかもそこでははちみつが固まるというのが現れる。美術の時間、男子生徒が女教師の裸を想像しておっぱいを大きめにして描いたというのもラストの押し入れのそれに繋がるといった具合に。
と、こんなことを書いてみても、映画がわかったことにはなんにもならないが、ようするに僕はこの映画がよくわかってないのだ(エロの部分はわかるけど)。押し入れの中の男子生徒の描いた人妻の絵が、学校で描いたものとは違って、首から上だけ(つまり顔だけ)だったところに注目したいが、考えはまとまっていない。にしても最後の「トルコ行進曲」はサーモンの彼女が弾いていたたどたどしいピアノのリズムとは違って実に清々しく、人妻の心象にぴったりのような気がした。

 おとう、涅槃で待て〜『歓びの喘ぎ 処女を襲う』

みややと言っても嵐の二宮某のことではなく宮谷一彦のことだが、ちょっと前に某所でパクリ疑惑(?)について話されていたので、まあ漫画と映画を比較することで何か制作意図めいたものでも感じられないかしらんという烏滸がましい思いもあり試しに読んでみると、単にスジが類似している程度かと思ったら、そのレベルではなく、人物設定もそうだし、父が死んだと電報が来て、その紙を貼って妊娠した女を残して田舎に逃げ帰るところからは、男が言う「おとう、あんたも魚を食ったな」という最後の台詞まで総てが同じで吃驚してしまった(松本零士なら確実に裁判おこす)。高橋伴明『歓びの喘ぎ 処女を襲う』1981は誰が見ても間違いようがない宮谷一彦『性蝕記』1971のパクリであった(故にミヤヤフリークは必見の映画)。

このような原作者を明記しないいただきと言えば、寺山修司草迷宮』の出演者でもあった紀ノ山涼子が脚本の『女子大生の告白 赤い誘惑者』が寺山修司『わが故郷』からの拝借を含んでいたり、足立正生の『堕胎』が澁澤龍彦の翻案だったことなども思い出される。

閑話休題。ともかく『性蝕記』と『歓びの喘ぎ 処女を襲う』は、スジは全く同じだが漫画と映画ではやはりその作風が異なる。漫画では主人公の男の心象はおどろおどろしく幻想的な描写で具現化するが、このへんはほとんど映像化不可能なので、元よりそんなところで勝負する気もない高橋伴明はばっさり、そういうのは無しで男の心象描写に迫ろうとしているようだ。

革命の夢に破れた男(下元史朗)は漫然と「出口」を求める。ときに頭に受けた革命の傷跡に苛まれながら(そのときの高層ビル街でのカメラワークがカッコいい)、思想を変えようにもそれは決定的突破口にはならず、「出口」を女に求めるも女が妊娠したことでそれは塞がれ(そんなものはもとより幻想だ)、父親の死を口実に今度は田舎に逃げ帰ることでそれを求めれば、そこには工場の排水によって汚染された魚を食ったことで白痴になった妹がいて、しかも色キチガイになっていて実の兄である自分の体を求めてくる。妹をいっそ殺してやろうと思うがそれもできず、かわいそうな妹を抱いてやる。ふつう文学に現れるような近親相姦は決まって破滅の裏側に甘美なものが潜んでいるものだが、この物語においては否、安直に言えばそれは男にとって地獄であり(精神的にも肉体的にも疲弊しきった感。だが葬式帰りの兄と妹の自転車二人乗りのシーンが美しい)、これから抜け出すには、自分にとっての「出口」とはもはや狂うしかない、死ぬしかない、と、漫画ではそれに気付いた男が「おとう、あんたも魚を食ったな」と言いながら一人でモーターボートに乗り沖へ出る、「出口」へ向かってまっしぐらというような(それはまるで再び革命の渦中へ飛び込もうとするような一種の激情を感じさせる)カットで終わっているが、映画ではそれと反対に、大漁旗で装飾された部屋(?)で卓袱台をはさんだ兄と妹が、薄暗い裸電球の下で向かい合って、黙々と、うつむきながら、魚を食べているカットになっていて、それがただただ静かであり、その佇まいはすでに涅槃の境地にいたっており、二人は真の「出口」に達したように見える。このまま彼らは、静かに、安らかに、人知れず消滅していくだろう。理論ではなく感性がこのラストシーンの素晴らしさを、そう我々に訴えかけるのだ。

 ツレヅレ六十年代幻ノ官能女優達

宮益坂上の「寺子屋桃色活動写真」が先日開校し、ぼやっとしてたら今週末からは羅比遊多阿佐ヶ谷において「六十年代幻ノ官能女優達」が始まるんではないか!


おそらく秀作ばかりを集めたのだとすぐに了解できる宮益坂上の寺子屋みたいな上映一覧も桃色活動写真初心者の僕にはちょうどいいのだが(*1)、それでもその枠を軽く飛び越えてしまう、寺子屋よりもさらに偏執狂的な羅比遊多の上映一覧に、より心惹かれてしまうのをやはりどうすることもできない。


下世話な話、例えば寺子屋で「桃色創世記」とカテゴライズされた作品、すなわち『カベのナカのヒメゴト』(1965/W松孝二)、『コーヤのだっちわいふ』(1967/Y和屋竺)、『ぶる〜ふいるむのオンナ』(1969/M井寛)、『にゆうじやつく&べてい』(1969/O島勲)、『フンシュツキガン十五ダイのバイシユンフ』(1970/A立正生)、『ヌれボタン 5アクニンボーコーヘン』(1970/U沢薫)などは、フィルム上映の機会はともかくとして、全作ビデオ化されている有名タイトルばかりで観ようと思えばいつでも観られるものであるし、だいいち若松孝二と向井寛はともかくとして、他の若松プロ系の監督連中までも「桃色創世記」にカテゴライズするのはどうかという疑問もあるのだが、まあそれはまた別の話として、つまりはだ、「創世期」の冠に”まだ”価しそうな上映一覧は羅比遊多の方であって、それはごく個人的な感想を述べれば、例えば制作配給会社にはもうプリントがなく、監督が個人所有の目的のため焼いていた自作品の16mmフィルムをその監督から直接借り受けて掛ける本来ならば有り得ないような上映一覧であり(にしても湯浅浪男の『悲器』など一体どこから出てきたのか?!)、またトークゲストの超絶な豪華さ(*2)を考え合わせるとこの事件は言語に絶し、それは生温い学舎というよりも「虎ノ穴」といったガチ具合で、こちらも真剣に取り組まなければ殺られてしまうような気概さえ感じる。辛うじて『歪んだ関係』(1965/若松孝二)と『淫紋』(1967/向井寛)だけはビデオ化されているので観たことあるが、その他の七作品にいたってはそのタイトルさえも聴いたことがないものばかりだった。

(*2)3/14内田高子、3/29若松孝二、4/7小川欽也、4/11久保新二、4/18野上正義、5/2香取環


一般に、大蔵貢がおこした大蔵映画の傍系制作プロダクション協立映画で1962年に小林悟が監督した『肉体の市場』が桃色活動写真第一号だとされている。ちなみにこの映画に主演し、桃色活動写真史において「桃色活動写真女優第一号」の地位に燦然と輝いているのが、「六十年代幻ノ官能女優達」チラシの表紙でもあり(裏は内田高子)、五月二日のトークゲスト(!)でもある、香取環である。余談だが香取環といえば、日活時代は大部屋女優(赤木圭一郎と同期)で、「佐久間しのぶ」名義で端役出演していた。


1962〜63年の桃色活動写真創世期、それは小林悟(新東宝の傍系、近江プロから映画界入り)、関孝二(新興キネマ華北電影→テレビで動物映画200本監督等)、本木荘二郎(言わずもがな元東宝の大プロデューサー)、北里俊夫(池袋のストリップ小屋の経営者)、三輪彰(新東宝出身、湯浅浪男を代表とする「第七グループ」の第一回作品の監督として乞われる)、沢賢介(新東宝で撮る一方、PR映画の演出が主)、そして桃色活動写真監督”第七の男”として63年にデビューする若松孝二と、それぞれ出自の異なった監督(やスタッフ)が組んず解れつと入り乱れたカオス期だった。その後、桃色活動写真第一次ブームが起こるのが1965年であって、とりあえず今回羅比遊多で掛かるのはこれ以降の作品ばかりである。また監督のデビュー年を考えてみてもいいが、小川欽也と湯浅浪男は64年、向井寛と西原儀一は65年で、例えば「創世期」(まあ羅比遊多は別段それを謳ってるわけではないのでモーマンタイだが)というには小林悟はじめ上記六人の監督作が入ってないのは片手落ちであるし、むしろ羅比遊多の上映一覧は「第一次黄金期」の様相を呈していると言った方が近いかも知れない。

つづく



(*1)90年代以降の桃色活動写真といえば、いままで『桃お嬢さん』しか観たことなかったのだが、今回宮益坂上の寺子屋で数本観て、最近の映画も面白いんだということに気づいた。初見の(まあ全て80年代のものだが)1.『ねらわれた学園 制服を襲う』、2.『菊池エリ 巨乳』、3.『アブノーマル 陰虐』がとりあえず暫定極私的ベスト3。
1は言わずもがななナンノ・スケバン刑事のパロディ映画で、鉄仮面ならぬ三段締め養成ギブス、ヨーヨーならぬバイブが飛び出るけん玉エトセトラなにからなにまでカッコよかった(くだらなかった)。田口あゆみのスケバンがお供しますって赤い傘さして待ってるとことそのあとの歌(南野陽子?)とか凄すぎる。世界のタキタロウもいいけれど、渡邊元嗣の世界も最高だと思った。
2は繰り返される引きの(また長回し気味の)フィックス撮影が冒頭からしてひどく印象的で、パンは菊池エリの撮影現場にて初めて菊池の結合から池島ゆたかの顔になされるが、これが池島の恋情の萌芽を暗示させていて実に効果的だった。逮捕時の無声映画的演出、クレジットの際の自筆プレート、深夜のバーの浮遊感、相談師(?)の女のあっぱらぱー、それを素直に聴く菊池、彼女の素直さ(演技?)はとても素晴らしい。池島ゆたかテレビの中の菊池に顔面射精のプラトニック、とにかく良かった。
3は物凄いとしか言えないが、時代は佐藤寿保だなと思った(え?遅い?)。とりあえず佐藤寿保は『激愛!ロリータ密猟』ぐらいしか観たことないので、渋谷のツタヤに寄って『夢の中で犯して殺して』(決め手:パリ人肉事件の佐川君が出演してるから)と『狩人たちの触覚』(決め手:脚本が南木顕生だから)を借りた。つーか『夢の中で犯して殺して』ってビデオ題で、劇題は『浮気妻 恥辱責め』だったんですね!この映画、佐川君が出演してるというだけで前から観たかったのですよ。こんな形で邂逅するとは。ああ、『血を吸うカメラ』も借りなければ。
とりあえず90年代以降のでは『わいせつステージ 何度もつっこんで』『超いんらん やればやるほどいい気持ち』『痴漢電車 びんかん指先案内人』『白衣と人妻 したがる兄嫁』を観たが、わいせつステージが群を抜いて良い。

 ロマポ脇役俳優は永久不滅〜『花芯の誘い』

小沼勝『花芯の誘い』(1971年12月18日公開)を観る。
例えば田中登のデビュー作『花弁のしずく』がそうであったという意味で、小沼勝はデビュー作から小沼勝だったんだ!と思わず叫びたくなるどこを切っても小沼なキンタロウアメ的秀作。
因みに脚本の「荻冬彦」は小澤啓一、撮影の「里村延夫」は安藤庄平、音楽の「月見里太一」は鏑木創の変名。『花弁のしずく』の三田村玄は「元」名義。


あらすじ…ひどい性的暴行を受けたショックにより記憶喪失&白痴になってしまった牧恵子。日本ではまだ例はないが、海外ではもう一度同じショックを与えることで記憶が蘇る例が報告されていると話す精神医。もうそれしか手はない、その方法に賭けるしかないと言い出す牧の兄貴(三田村元)とそれに同意する牧の恋人(浜口竜哉)、ってこの時点で馬鹿馬鹿しいことを真面目に言ってる可笑しさに突っ込みたくなるのだが、それはともかく、まずはタクシー運転手に犯されたかも知れないとの推理を立て、同じショックを与える、つまり運転手(高橋明)を雇って牧恵子をレイプさせるバカコンビ(自分らはそのレイプ現場を出歯亀)。しかしそれは牧の淫乱の血を目覚めさせる(記憶喪失前は処女で貞淑)結果となり、牧は「セックスの欲望だけしか持たない牝」になってしまうという前よりひどい状態に。このことにさすがのバカコンビもショックを受けるが、それでももう後には引けないと、今度はヤクザに犯されたんだと推測し、ヤクザ乱交現場に牧を投入する(またハズレ)。結局黒人に犯されたことが原因とつきとめ、ショック療法を成功させてめでたしめでたし。


若さ溢れる面白いシーンは数多あれど、小沼勝の面目躍如は、例えば鈴木則文『現代ポルノ伝 先天性淫婦』(1971年12月17日公開)でサンドラ・ジュリアンが刺青者名和宏らに犯される夢のシーンをも想起させる、牧恵子が見事な刺青(河野光揚)を背負った木夏衛ら三人に犯されるシーン、また乱交直前の儀式(『昼下りの情事 古都曼陀羅』)、乱交(真上から俯瞰ショット→上に引き→照明の変化→役者自力でストップ(『荒野のダッチワイフ』))などの一連のシークエンスの夢幻的な演出だろう。
他、ウエディングドレスを着たマネキンを見ながら微笑む白痴の牧だが、マネキンからドレスが一瞬消える幻を見て狼狽するシーンとかも何気ないがいい。
ギャグも冴えてる。童貞然とした三人組がピンク映画館の前でたむろしていると、ノーパンでふらふらした牧恵子が目の前に。やっちまえ!ということでレイプするのだが、そのうちの一人我らが清水国雄は「愛」と書かれた図鑑を見ながら(セックスのやり方を読みながら)レイプするのにはウケる。
タクシー運転手がヒゲ面のメイさん(『実録白川和子 裸の履歴書』『もっとしなやかにもっとしたたかに』『女高生レポート 夕子の白い胸』)なのも個人的にツボ。タクシー男優。このシーン、車内でレイプするのだが、車外からのショットでは牧恵子の喘ぎが無音になるのもイカス。
白痴になって言葉が不自由な牧恵子が黒人に犯されかけそうになってるときのこれ見よがしの壁の落書き「ヤメテ」。牧が壁にもたれてずるずると腰砕けになると、そこに現れる「お母さーん」の落書き。
浜口竜哉の頭の上に乗るハト。ぶはは!


「『いわゆる集合的下意識の中には、暗い前世界の獣や悪魔がいまだに生棲している領域が存在している』(C.G.ユング)のである。ちょうど分別が少年の熱い衝動を覆い、皮膚が血を覆っているように、現在が原型の深淵を覆っている。だが、幻想の領域ではこの定義は逆立する。そこでは太古の世界におけるように突如として深淵が反乱を起し、原型が大洪水のように現在を覆い、血が皮膚を覆うのである。血と皮膚の関係の逆転にほかならぬ血まみれのものの姿は幻想におけるエロス的顛倒の逆ユートピアにほかならない」(種村季弘『吸血鬼幻想』)



『花芯の誘い』1971
監督小沼勝,企画伊地智啓,助監督八巻晶彦,脚本萩冬彦(小澤啓一),撮影里村延夫(安藤庄平),音楽月見里太一(鏑木創),美術深民浩,録音福島信雄,照明越川一郎,編集鍋島惇,刺青河野光揚
出演 牧恵子,浜口竜哉,三田村元(玄),木夏衛(榎木兵衛),黒田昌司,高橋明,鈴木リエ,ピーター・ゴールデン,甲斐康二,織田俊彦,小見山玉樹,清水国雄,向野和夫,佐藤光夫,南勝美,佐藤八千代,千原和加子,大杉真紀,滝良美

 『痴漢地下鉄』と『特殊三角関係』

なんだかめっきり春の陽気ですが皆様如何お過ごしでしょうか。
暖かくなってくると決まって巷には春の珍事と呼ばれるようなことが起こり、女性は薄着になって肌の露出度が増し、それにともない痴漢のモミベーションも上がる一方です。
というわけで昨日はカントクの『痴漢地下鉄』を観て、痴漢のノウハウを学んでみました。


久保新二はマスオさん的サラリーマンで、日々の生活に、人生に、辟易しまくってるわけだが、ふとしたきっかけで観たピンク映画に感銘を受けて、自分も痴漢をすることを思い立つ。地下鉄での初めての痴漢、スリルと刺激、そこで同じ女を一緒に触った堺勝朗と意気投合し、飲んで出歯亀したあと家につれて帰るのだが、嫁のあそこを勝手に堺に貸したことで二人は家を追い出される。二人はホームレスになりながら痴漢や覗きに明け暮れるのだが、持ち金が底をつき、久保が嫁に金の工面のため電話してみると義理の父が昨晩脳溢血で死んだという。そのまま久保は堺の前から失踪、一ヶ月後久保は大きな会社の社長になっていた、義理の父の跡を継いで。もう社長なんてやめてやる!ピンク映画が観たい!痴漢がしたい!自由が欲しい!とごねる久保、それを引き留める秘書らと悶着してるところへ堺が通りかかり、二人は再邂逅を喜び合い、そのまま懐かしの地下鉄へと痴漢をしに走るのであった。


久保や堺はアドリブばかりだし(久保のそれ見て女優が思わず笑ってしまったり)、物語はあってないようなものだし、女優はみんなブスだし、やっつけ感が全編に漂う、くっだらないとしか言えない映画なのだが、それでも個人的には久保と堺のコンビを観てるだけで楽しいし、彼らの痴漢で結ばれたような友情っていいなぁって思う。
夜の公園で出歯亀してるとき、それを見てセンズリを始めだす久保に、”かいたるか?かいたるか?”と言って久保のちんちんをマスカキしてあげる堺、”ごめんね、真鍋くん(堺の役名)”と言ってその好意に甘える久保のやりとりがひどく可笑しくて、そして久保のちんちんが物凄ーーーーくデカいことで、覗かれていた男女が今度は久保と堺のセンズリを覗くという逆転が起こるのも面白い。


日活だったら吊革などの小道具を配した電車内のセットを作り、そこで痴漢シーンを撮るところだが、そこは予算の少ないピンク映画、電車内での痴漢シーンは久保・堺・痴漢される女のバストショットと股間のアップだけで処理し(引きの画がないので人物以外は何も映りこまない)、そこにアナウンスや雑踏や電車の走る音をかぶせて、それらしく見せている。


カントクの映画は全編さまざまなジャンルの音楽に溢れているが、その使われ方はミスマッチかタモリ倶楽部的なものが多い。
絶対誰もが聴いたことある有名なカントリー曲(?)なのだが、僕はその曲名がわからないのでyoutubeで検索もできないけれど、例えばその曲は電車内で久保と堺が女をサンドイッチして痴漢するシーンに流れ、その歌詞に”choo choo train(汽車ポッポ)”とあったりするところがいかにもタモリ倶楽部的。ちなみに”choo choo train”には米スラングで「一人の女が複数の男とセックスすること」の意味もある。なるほどカントク!


その他、久保&堺が痴漢するため住宅街を徘徊していたとき、画面に畑が一瞬だけ映るバックには、”裏の畑に芋植えて 長くなれ 太くなれ 毛も生えよ そしたら私のすり鉢でトロロになるまで擦りましょう♪”という猥歌(タイトル不明)が流れるのだが、もうタモリ倶楽部的というのを飛び越えてしまって、ほとんど意味すらわからない!
この歌詞での「芋」とはもちろん「ペニー」であること言うまでもないが、ちなみに昔の性具には「ずいき(芋茎)」というものもあった。これは今で言うところのペニーリングの類いだろうが、文字通りハス芋の茎の皮を剥き、それを乾燥させて紐状にしたものを指す。これをペニーの「かしらよりかけ、あやをとりてねもとにてとめる」といった具合に装着して挿入すると「中にてふやけ、ぬきさしにきみよし」ということで、また芋茎を使うとヴァギーがひどく痒くなるらしく、女はその痒さを紛らわすために(ペニーでヴァギー内を掻いてもらうために)、”もっともっと!”とお願いするようになるという。なるほど、この性具を「ずいき(随喜)」とはよく言ったものだと妙な感心をしてしまう。ちなみに中野栄三『江戸秘語事典』によると、「芋」は「秘語で男陰の異称」とある。


その他の猥歌では「よさほい節」も久保&堺がホームレス生活してるときに流れる。
http://www.geocities.co.jp/MusicStar/9962/zatsu/zatsu_05.html


高橋明の猥歌「なんけ節」は流れない(当たり前だ)。



カントクの『特殊三角関係』をひどく楽しみにしていたが、期待が大きすぎたかも。ショパンの「別れの曲」が流れるなか、谷ナオミ野上正義が出ていったあと手に持ったタバコを二つにちぎる、二人は今別れたということを示す演出が心憎いばかりで、しばらくシリアスな調子だったので、まさかこのまま最後まで行くのか?!と、もしもそうだったときのことを考え吃驚する準備をしていたが、偉人たちの恋の名言を野上がナレーションするあたりでやっぱりふざけた映画なのだとわかる。自分が期待していたようなはじけ方はなかったけれど、男と妻と前の女の特殊三角関係は面白かった。神代映画でもそうだが、谷ナオミはSMの女王よりもコメディエンヌの方がとてもいい。