「現代娼婦考」考序説


 『現代娼婦考 制服の下のうずき』の原作は「現代娼婦考」という、1973年11月より「土曜漫画」(隔週誌)で連載された、同誌その時期の二大看板漫画の一つで、シナリオを荒木一郎、劇画を向後つぐおが担当している。
 連載中に日活ロマンポルノ化が決まった。


 物語は一章と二章に分かれ、一章は敗戦後の1945年8月26日より日本国は売春を公営事業としたという設定で始まり、後に赤線またその廃止と、国に翻弄され続けた娼婦として本作ヒロイン夏川真理の母親、そして真理の出生が描かれる。
 二章は大学に通うようになった真理が娼婦をしながら母親を探す「母たずね物語」で、さながらロードムービーのような骨子、その行く先々で様々な人と事件に遭遇していく。



 原作を読んでわかったことは、原作と映画は無関係、まったく別のおはなしということだった。


 唯一同じなのは、主人公の「真理」という名前だけ。
 彼女の性格設定も漫画と映画では正反対だし、映画に出てくる登場人物は漫画では誰一人出てこない。
 なので映画について語ろうとする上で漫画は何の参考にもならなかった。


 余談だが、映画では出てこなかった「制服」は、真理が女子中学生のときに妊娠し、その堕胎費を工面するために売春し(その日に自分が娼婦の子であることを知る)、輪姦されるエピソードのときに出てきた。


 それと漫画を読んで目から鱗が落ちたのは、映画が娼婦のことを何も描いていないことだった(映画はそこに重点を置いていないので別に問題ではないけれど)。
 ただ、「娼婦」について考えたとき、「娼婦真理」の字面を見て、あっ!と思い出すのは村祖俊一『娼婦マリー』(1978年1月より「漫画エロジェニカ」連載)だが、例えば、娼婦としてマリーの娼格を極上とするならば、漫画の真理は中がいいとこ、映画の真理(潤ますみ)は下の下であろう(長弘や織田俊彦の場合を想起せよ)。
 これまであまり意識せず漠然と観てきたことを反省するが、数多ある「娼婦映画」はきちんと娼婦を描いているか再考する必要があるかも知れない。
 それはともかく、原作漫画と映画では荒木一郎の「娼婦考」が一貫してないことや、真理の性格設定に大きな隔たりがあることもあり、原案という形で名前だけ貸して、映画の脚本には荒木一郎はノータッチだったんじゃないかと思う。
 個人的な感想を述べれば、「現代娼婦考」の漫画は大して面白くなく、映画の方は傑作かと思います。



娼婦マリー (エロジェニカコミック)

娼婦マリー (エロジェニカコミック)

私の気持ちもわかるだろうさ、てめえのオマンコで客を取ってみりゃあ」(娼婦マリー)

 爆音映画祭2009〜人のセックスを笑うな!!!!

「エロティシズムとは死にまで至る生の称揚である」という仏蘭西の思想家であり糞便の神の使い古されたフレーズがすぐさま思い出され、思わず西村潔のベストと断言してしまいたくなるそんな誘惑に駆られる映画だ。


開巻してすぐ、トヨタ2000GTのエンジンに火を入れたときのブォォォンンン…という重低音とそれに伴う振動、たったこれだけのことなのだが、ぞくぞくっと身内が震えて鳥肌が立った、その瞬間、この映画は傑作に違いないと確信したのだった。
朝の首都高を走り出すトヨタ2000GT、静かに出るメインタイトル、2000GTが車をすり抜けながら爆走するタイトルバック、かぶされる菊池雅章の音楽、このような調子で「ただ車が走っているだけ」であるこの映画は、ラストまでノンストップで走り抜けて、そして燃えた。
カーチェイス映画に造詣がないので何とも言えないが、以前に観てひどく感銘を受けたタランティーノの『デス・プルーフ』に勝るとも劣らないチェイスシーン、というか西村潔の、攻撃的なのだけれどジャジーで濡れたそれとは全く別物か、昂揚感と安息感のアンビバレントな混淆、この心地良さ、言葉じゃうまく表現できない。この映画は劇場の暗闇でスクリーンに身を委ねて、しかもエンジンの振動がそのまま体を直撃する重低音の効いた爆音映画祭において観られるべき映画だ。そう、考えるな、感じろ。


主人公の女と男にとってのエロティシズムとは言うまでもなく「スピード」である。つまるところこの映画はカーチェイス映画ではなく、男女のプラトニックな愛の映画である。女と男の二人切りで行われるカーチェイスもといカーランデブーは、言うなればまんま彼らのセックスであり、明らかに西村潔もそこだけ画づらをキラキラと撮っているのである。告白すれば、ここまで美しいと思ったセックスシーンを僕は観たことがない。ただそのセックスの最後に、彼らが波濤の中を車で走ってくる場面には、思わず失笑を禁じ得なかった。「波濤」は言うまでもなく二人が結ばれた、オルガスムスに達したことの暗喩で(まんまそういう風に撮っている)、こういうことをなんの臆面もなくやってしまう西村潔に笑った。


「性的絶頂」のことを指す独逸語「オルガスムス」が「小さな死」という意味ならば、彼らの「生」の称揚は大きな死に向けて、「性」を超えてなお突き進まなければならず、「波濤」シーンを終えた瞬間に、キラキラからまたバトルモードへと続くのは必定、そしてその結果は自明の理なのであった。


例えば、忘れようとすればするほど人間はそのことを忘れられず、逆に心の中でそれが大きく成長していくように、スピードの世界と無縁でありたいと頑なに願う見崎清志は、その実、スピードという摘出不可能な癌を身内でひっそりと静かに大きく大きく育てているようなものだ。江夏夕子との一年ぶりの再会で交わされた「覚えてる?」「忘れた」の一言は癌再発の、また男の愛のスイッチであった。しかしそれは愛する者へ死を与えることも同時に意味し約束されたスイッチ。そのようにしか女を愛せなかった男の心中とは一体如何ばかりなものか。想像もつかない。



というわけで、吉祥寺のバウスシアターで映画を観たのも初めてならば、当然「爆音映画祭」も初体験なのでした。
”爆音”と言うぐらいなので、観る前はひどく心配でした。あまりのうるささに頭が痛くなるかも…、気分が悪くなるかも…と。でも実際体験してみると思っていたほどではなく、確かに重低音の振動は体を直撃するけども、他は別に”爆音”というほどでも。ただやっぱりエンジンに火を入れるとそれに合わせて体もブルブルンと振動するので臨場感がありましたけどね。
しかし、明らかに観てるでしょって人たちも大勢来ていて、改めてこの映画のカルトぶりを認識した次第です。
上映後、某女子がつぶやいた「ただ車が走ってるだけなのにすごく面白い」はけだし名言。ほんと不思議な映画だよ。


というわけで、『ヘアピン・サーカス』(1972/西村潔)は、6月4日13:25にもう一回上映されます。
奇しくも『デス・プルーフ』も6月8日21:00にあるんだなぁ。爆音映画祭において、この手の車映画はたぶんエンジンの振動が心地よいはず。行こうかな。

 ロマポ俳優列伝(仮)〜塚田末人篇

えーと…ですねぇ、ぼかぁ、『レイプ25時/暴姦』(1977年)っていうレイプ映画が大好きなんですが、そのなかに塚田末人っていう役者(上のDVDジャケの青年)が出てくるんですが、この塚田末人、キネ旬の俳優事典にも載ってなく、<日本映画データベース>や<goo映画>などのデータベースで検索しても出演作はたったこれ一本きりでほとんど謎の俳優だったんですが、先日ふとリンク元を辿っていたら、チャーリーカンパニーというお笑いコンビの日高てんと同一人物だということにぶち当たり驚きました。初めて知ったのですが、え?こんなの日本の常識ですか…?


残念ながらチャーリーカンパニー(「チャリカン」と略すらしい)のコントは観たことないけれど、確かに顔がまんま…


チャーリーカンパニーのプロフィール
http://www.parknorth.jp/charly-pro.html


数年前に東映チャンネルで大宮敏充の「デン助」シリーズを放映していたのが記憶に新しいが、なんでも塚田末人はその昭和浅草のコメディアン大宮デン助率いる「デン助劇団」の出身、デン助最後の弟子だったらしい。「デン助劇団」は1973年に解散していて、その後の塚田末人といえば、1974年から75年にかけて日活初のテレビ時代劇「大江戸捜査網」や東宝の「太陽にほえろ!」に本名の「塚田末人」名義で出演、1975年には「日高てん」として日高のぼるチャーリーカンパニーを結成している。そして映画初出演(?)となる1977年の『レイプ25時/暴姦』で石山雄大演じる赤ジャケのレイプ魔に憧れる青年を演じることになるのだが、一体どういう経緯でいわばお笑い芸人の日高てん(塚田末人)を準主役に起用したのか、しようと思ったのか、嗚呼!牧ひとみのことと一緒にこないだ長谷部監督に聴くべきだった!つーか、チャリカンはまだ現役なので、彼らの舞台に行く人は『レイプ25時/暴姦』のDVDにサインでも貰うとき、出演に到った経緯や思い出話、エピソードなど聴いといてくださいな(他力本願)。つーか、浅草東洋館で出待ちしようかなぁ。
にしても以前『レイプ25時/暴姦』について触れたとき、塚田末人のことを青年、青年と繰り返し書いたのだが、塚田末人このとき31歳、青年というよりもう軽くおっさん入ってる年齢やんか!
それと塚田末人を見るたびに某映画のトーベン・ビレを思い出してしまうのはここだけの話です。

 ブラームスいまだ鳴りやまず〜『レイプ25時/暴姦』音楽演出考

前にA女史がルイズ・ブルックスが踊るシーンに付いた音楽に辟易し、音を消して観たらとても良いと言っていたのをふと思い出した。確かにそれは無音の方が素晴らしく、素っ頓狂な音楽が映像の邪魔をするというのはあると思う。
またこの逆も然りというのもあるだろう。映像が音楽の邪魔をするというような。例えば淀川長治などは、蔵原惟繕『陽は沈み陽は昇る』について、そのタイトルバックに流れるニーノ・ロータの音楽と撮影の美しさに見とれ聞き惚れたと言っていたが、踊るが如く大きな文字でタイトルが飛び出した瞬間、美がすべて叩き潰されたとえらい剣幕で憤慨していた。
と、映像が音楽を殺すという話はとりあえず置いといて、音楽は映像を殺すのか生かすのかという話に戻ると、高田純さんのブログ「牡丹亭“と庵”備忘録」に詳しいが、神代辰巳『恋文』に関するエピソードが実に興味深い。
高田氏曰く、『恋文』は音楽が付いていなかった「オールラッシュのときが最も感動的」で、音楽担当の井上堯之は余計な音楽をつける必要はないこと主張したらしいが、監督神代辰巳の”ヒットさせたい”という意向でいっぱい音楽がつけられ、そしてそのせいもあるのだろうか現にこの映画はヒットしたのだという。
確かに音楽というのは映像以上に観客の感情に大きな作用を及ぼす場合があり、音楽によって思わず鳥肌が立ったり、感極まるというようなことは多々あるが、しかしだからと言ってやたらめったら音楽を付ければ(バカみたいに大きなボリュームにすれば)いいというものでもあるまい。
すると今度は映像と音楽の調和(「マッチ」「マッチのようでいてミスマッチ」「ミスマッチのようでいてマッチ」「ミスマッチ」)だとか、ボリュームの強弱だとか、音楽演出の話になり、例えば淀川長治は『映画批評論』の中で、
ヴィスコンティの『ベニスに死す』で、作曲家が美少年タジオを発見したときは<メリー・ウイドウ>のヴィーイリアの愛の曲がゆるやかに、やがて高らかに流れてきた。これがのちのタジオのピアノのざれ弾きの<エリーゼのために>をアッシェンバッハが聞くときには売春婦の回想が加えられていた。二つのメロディがこの作曲家の美の発見から美の現実的な耽溺へと移ることを示してその演出は巧みであった」
と語っていたが、このように音楽演出の効用についてまで考えを巡らさなければならなくなってくる。



果たして、これほどまでにベートーヴェンの楽曲が効果的に活かされた映画はあっただろうか。
登場人物の心象風景から場面描写に至るまで、全編にわたって、その映像と音楽との融合は見事と言う他ない。
冒頭、ストーリーの契機となる悲劇的な「運命」のダダダダーンはあまりにもベタで半ば失笑気味だが、いやいや、観進めていくうちにこれはなかなか生半可なものではないぞと思わされる。監督のベートーヴェンへの造詣の深さには脱帽するばかりである。
さて主人公の心象は沈痛なピアノソナタを経て第九、歓喜の歌へと昇華する。悲劇が歓喜に変わるのだ。
女のこの手の変貌ぶりを描いた映画や文芸はいくつも存在するが、歓喜の歌の強奏とともに導かれる終幕では、思わずブラボーと快哉をあげずにはいられないのである。


上記は、監督である長谷部安春ベートーヴェンへの造詣の深さを喝破し、それをまことに端的かつ的確に記した瑠山智満氏による『襲う!!』評*1であるが、これにある通り『襲う!!』は長谷部安春の音楽演出がもっとも成功した一つの例であろう(特に女の悦びに開眼した小川亜佐美と「歓喜の歌の強奏」の重ねが素晴らしい!)。
”一つの例”と書いたのは、音楽演出に冴えを見せた長谷部ロマポは実はまだ他にもあるわけで、例えば『襲う!!』における「運命」、『マル秘ハネムーン 暴行列車』におけるピンクレディーの「S・O・S」と「ウォンテッド(指名手配)」といったような状況的にベタベタな、タモリ倶楽部的な選曲センスばかりがなにも長谷部安春の持ち味ではない*2
ようするに何を言おうとしてるのかというと、『レイプ25時/暴姦』におけるブラームスを用いた音楽演出、ミスマッチのようでいてマッチな音楽と映像のハーモニーの美しさについてなのである。


ドイツ音楽における「三大B」といえば、バッハ、ベートーヴェンブラームスのことを指すらしいが、このうちの二人を長谷部安春は『レイプ25時/暴姦』(1977年)と『襲う!!』(1978年)の音楽でそれぞれ用いている。特に後者にいたっては堂々と「音楽:ルートヴィッヒ・ヴァン・ベートーヴェン」とまでクレジットされていてまったく恐れ入るが*3、しかしたとえノークレジットであったとしても『レイプ25時/暴姦』におけるブラームスの重要性は、『襲う!!』のそれと同等、いやむしろそれ以上と言えるほどであるかも知れない。


ベートーヴェンを使った『襲う!!』ではヒロイン小川亜佐美の状況下・心象下によって、例えばレイプ魔との突然の邂逅では交響曲第5番「運命」、初めて犯されたときはピアノソナタ第8番「悲愴」、女体の悦びに開眼したときは交響曲第9番歓喜の歌」といったように非常にマッチな標題が付いた曲が重ねられ、ある意味ベタな選曲であったとも言えるが、この前年の『レイプ25時/暴姦』の(標題といったものは特にない)ブラームス交響曲第3番第3楽章の使い方はもっと先鋭的で、ミスマッチで、衝撃だった。
ブラームス交響曲第3番は、ブラームスが50歳のときに作曲され、そのときブラームスが入れあげていた26歳のアルト歌手ヘルミーネ・シュピースへの切ない恋愛感情が反映されたものと言われている。特にそれを裏付けるかのような第3楽章の想い人に対する恋情と憧憬、叶わぬ想い故の切なさや憂い、また逆に恋をする者特有の恍惚感といったものが綯い交ぜとなったメロディの美しさといったらないが、この曲を長谷部安春はなんとレイプシーンに使ったのである。しかも恋い焦がれた末のレイプなどではなく、そこにその女がいたから犯したというようなゆきずりの、女をばちばちと殴る激しいレイプシーンで。


”ゆきずりのレイプ”というと少し語弊があるので、これから『レイプ25時/暴姦』の内容についても説明していかなければならないが、まずは石山雄大が演じるところの強姦強盗を生業にしている赤ジャンパーの男である。
仮に天動説の男とでも言おうか、物語はこの謎の男を中心に、他の登場人物たちがそれを取り巻く形で構成されている。というのは、この男の求心力たるや半端ではなく、男と接触した者は決まって男の何かに魅入られてしまう。
その最たる一つの例がアナーキーで超暴力的なホモ三人組(村上直史、高橋明、田畑善彦)で、彼らは男のお釜を掘る(またお釜を掘られたい)いう即物的な肉の欲望、ただそれのみを動機として男を執拗に追い回す、その犯るか犯られるか命がけのバイオレンスな追いかけっこが物語の主軸ではあるのだが、しかしそれは今回のブラームスの話とは関係ない。
つまり、ブラームス交響曲第3番第3楽章(以下「ブラームス」とする)が流れるのは決まってバレリーナ山科ゆりを”犯すとき”に限られるわけで、冒頭ガソリンスタンドからホモ三人組の追跡に遭い、それをやり過ごしたのが偶々山科ゆりの家の陰であり、そこで見上げた二階の部屋に人影を発見したとき、いままで追い掛けられていた男は今度は平然と塀を乗り越え、女を犯すために部屋に侵入する。そのとき山科ゆりの部屋にかかっていたレコードがブラームスなのである。


この劇中で二度流れるブラームスの最初のケース、突然の侵入者に部屋の中を物を投げつけながら逃げまどう女、しかし男はそれを捕まえ女の口を押さえて引きずりながらオーディオの側に行き、ボリュームのつまみをひねる。
このなんでもないような演出にまず瞠目する。それまで憂愁の美を湛えながら流れていたブラームスはそこで突如けたたましく熾烈な凶暴性を帯びる。いやもっと言えば、レイプシーンにブラームスを重ねるという一見ミスマッチなこの使用方法は、「攻撃性を含まぬ愛はない」というインプリンティング(刷り込み)を発見したオーストリアの動物行動学者の言葉を思い出してもいいが、(後になってわかるが)つまり女に対して愛の刷り込みがなされたという暗示になっているし、また男もそれと同様になったことを表している。
ここで凶暴性を帯びたブラームスが鳴り響く中、男は女を顔面から血が出るほど殴りながら(また血をぬぐってやりながら)犯すが、そのとき男の腕に彫られた薔薇の刺青が徐々に赤く色づき始めることに注目しなければならない。
この男の刺青(仕掛け彫り)は”いい女に反応するアンテナ”のようなもので、例えば男は他にも女(桂たまき、丘奈保美、岡本麗)をレイプするが、彼女らに対しては腕の刺青は色づく気配さえちっとも見せず(レイプシーンのたびに腕の刺青のカットがこれ見よがしに挿入される)、薔薇は白い(肌の色の)ままなのである。
俗に意志に反して潤うヴァギナを指して”体は正直だ”などと下世話に言う場合があるが、不随意的という意味でそれと同様に、いやそれ以上に男の腕の刺青(体)は正直であると言え、このとき男は犯しながらもすでに無意識下で女を愛していたのである。それは後に女から盗んだペンダントを青年が持っていたことをトリガーとして女を思い出し、”あれはいい女だった”と言わしめたように男の中で完全に意識化する。


またブラームスはオルガスムスの暗喩としても機能する。
男は女を犯し絶頂に達した後、男を追って部屋に入ってきた青年(塚田末人)にも女を犯すようにうながす。うながされるままに青年は女に覆い被さる、するとじきにブラームスは鳴りやみ、そこにはただがむしゃらに腰を動かす青年が映し出されるが、それも虚しく青年のペニスは萎えたままでうまくセックスができない。
ブラームスが鳴りやんだことからも無意識的な愛の契約は強姦魔とバレリーナの間でのみおこなわれ、青年は射精もできずに一人蚊帳の外であることが示されるが、しかしこの体験で青年の憧憬は複雑な形をもって次第に大きくなって行くのである。


自分を絶対的な暴力の世界にいざなう謎の男の生き方に戸惑いと反発を覚えながらも、青年はその男に惹かれていく憧れの気持ちをどうすることもできない。
それはうながされるままに初めてやった強姦体験(未遂)の後、一人で雑木林の中でセックスしているカップルを襲って強姦したり、謎の男の薔薇の刺青を真似てボールペンで自分の腕にそれらしきものを描こうとしたりするところにも表れている。
また一方で、ペニスが萎えて挿入できたかさえ疑わしい初めてのレイプの相手にも一種の憧憬を湛えた恋情を抱くのである。それはバレリーナの家で盗んだペンダントを大事に持っていることからも、彼女の家の前に車を停め、彼女が出掛ければそれをこっそりと追い掛けるところからもわかる。


そこで青年が女をつけた先で目撃したのは、強姦魔と女の邂逅であった。
女は金を用意してきており、自分にもう関わらないで貰いたい旨を告げながら、それを男に渡そうとする。しかし男はそれを受け取ろうとせず、”好きなんだ”と言って女の股間に手を運ぶ、いちおう抵抗のポーズを見せながらも、男の魅力に抗えず股間を濡らし感じてしまう女。
(次の瞬間、いままで女をつけていたはずの青年が職場でイラつきながら車を磨いてるカットを挿むことで、女と強姦魔の親密ぶりと、時間の経過を一瞬で表す)
即座に場面転換し、ホテルか何かの一室、キスをする強姦魔と女のショット。唇を離した途端、女は男にビンタを何度もかますが(女のアンビヴァレントな感情の表象)、男はそれを余裕綽々といった顔で全て受け止め、再度キスからベッドになだれ込む*4。やはりこのとき男の薔薇の刺青は赤く色づくが、和姦の関係になってしまった二人の上にはもはやブラームスは鳴り響かない。


そして、謎の男はホモ三人組との死闘に敗れて死ぬ。
男の仇を討ち、憧れだった男の死亡をわざわざ確認したあと、青年は女の家に向かい、その部屋に侵入する。ここで二度目の憂愁と憧憬を帯びたブラームスの恋の曲が鳴るのだが、いままでの伏線や含みがここでようやく結実する。
つまり青年にとってバレリーナの女は密かに恋い焦がれていた憧憬の対象であり、初めての接触での失敗、謎の男とデキてしまったことも相俟って、絶対に手の届かないような女だった。
それが男の死によって事情が一変し、女を犯すことができ、青年の想いはめでたく報われた、と、事はそう単純に運ばないのがこの映画の安直に言うと奇蹟で、まず青年が女に襲いかかる前に、”あいつは死んだよ、だから俺が”と言った台詞に着目しなければならない。
もう一方の憧憬の対象である強姦魔と自分を同一視する、青年の一体化への願望は一種の精神的ホモイズムであろうが、すると青年は青年であって青年でないと言える。強姦魔の強烈な幻影からいまだ逃れられていない青年はあくまで強姦魔の身代わりに過ぎず、女からして見れば強姦魔が憑依した幽霊みたいなものであろう。
それが証拠に、この奇妙な三角関係の歪みを表象するかのように、青年と女のセックス(レイプ)は「割れた鏡の内側」(それは異界である)で羽毛が舞い散るなか幽玄的な雰囲気をもっておこなわれる。愛ゆえの破壊衝動に準じ白鳥(=バレリーナ)の羽を散らしてるはずなのに、恋い焦がれていた女を抱いているはずなのに、この血の通っていないようなセックスシーンはなんなのだろう。
もしもキスやセックスをすれば、それで自分の想いが報われたと思える人がいたならば、その人は幸せだ。レイプに成功してもやはり青年の想いは報われないし、その青年の心情が、ブラームスの哀切な旋律をもってよく表象され、またその音楽と映像のミスマッチのようでいてマッチな調和が、実に物悲しく、奇蹟のように美しい。
決して報われない熾烈な恋情を描いた映画という意味では、『レイプ25時/暴姦』は、例えば(ブラームスと同じく恋愛事情によって作曲された)マーラー交響曲第5番第4楽章を用いた『ベニスに死す』のラストシーン(この音楽の使われ方は「マッチ」以外の何物でもないが)に匹敵する美しさであると言っても過言ではあるまい。
そして、消え入るように終曲するブラームス(とエンドマークの出方およびS.E.)は、同時に青年の消え入るようなオルガスムスを暗示させ、最後の最後まで完璧である。


*1:蛇足ではあるがmigimeによる『襲う!!』評(http://d.hatena.ne.jp/migime/20070904

*2:3月29日にグリソムギャングでおこなわれた長谷部安春トークショーで、監督本人が「音楽はわりとベタに使う」と言っていて、ちゃんと自覚があったのだなぁと密かに思った。長年誰かの変名ではないかと疑念を抱いていた『エロチックな関係』の音楽「A・イカルト・ルティアーニ」や、『暴る!』の「ジャノ・モラレス」の謎も解けた。この『エロチックな関係』上映会については後日詳述。

*3:藤田敏八『エロスの誘惑』(1972年)では「音楽:J・S・バッハ」とこれまた堂々とクレジットされていることも指摘しておく。

*4:女にバチバチとビンタをかまされるが、その後キスしてセックスへと流れるシーンは、すでに『みな殺しの拳銃』(1967年)の中にも現れるハセベイズム。ちなみに『みな殺しの拳銃』は長谷部安春の監督第三作目、ハードボイルドの極北と言ってもいい映画で、双葉十三郎などは「日本映画監督50人」(『キネマ旬報』2002年6月下旬号)の中に長谷部安春を選び、この映画を面白いと言っている。友情と愛情と義理のあいだで揺れ動く男二人、宍戸錠(黒田)と二谷英明(白坂)の物語。ここに沢たまきという「女」を加え、またしても奇妙な三角関係をも描く。二谷は女房であるたまきに、錠との戦いで自分が死んだら錠を頼れと言うシーンなんぞ鳥肌。奇妙な三角関係といえば後の『レイプ25時/暴姦』(雄大、塚田、山科)をも想起するが、例えばダンベルで高品格の手をガンガン潰すのは高橋明(メイさん)のトンカチを、藤竜也が女にバチバチとビンタをかまされてからセックスの流れは雄大と山科のそれを思い出す。長谷部映画といえばジャズ。ケン・サンダースの歌うメロディが何故か『荒野のダッチワイフ』の鼻歌に聞こえる。揺れるライトで陰影を変化させたり、スペードのジャックの暗喩、奥行きのある構図の多用、ラストの宍戸と二谷の、コインの表と裏のような二人の対比、銃撃戦、凄いの一言。壁を背にした藤が銃撃されるシーン、棺桶ダイナマイトもあった。たまきの店の客でメイさんチョイ役。大傑作!

 ずっこけ欽也の映画放談〜『禁じられた乳房』他

いまラピュタ阿佐ヶ谷で開催されている「60年代まぼろしの官能女優たち」も残すところあと二作品となり、内田高子、若松孝二、小川欽也、久保新二、野上正義、香取環という錚々たる顔ぶれのトークショーも、5月2日の香取さんを最後にすべて終わってしまった。祭りの後はなんだか寂しいものですね。
それはともかく、ミーちゃんハーちゃんな僕はトークショーを全部観ようと密かに目論んでいたが、他の予定とかち合ったり、発熱時に風呂に入ったら今度は逆に体温が35度以下になって孤独死しかけてたりで、結局皆勤賞は無理だった。
映画館にも病院にも行かず、家でナマの生姜ばかりをポリポリと齧り(白血球が増える)ながら長らく臥せっていたので、当然ブログを書く気も起きず、だから完調した今、ようやく4月7日におこなわれた小川欽也監督トークショーの回想録をば(遅っ!)。



小川欽也監督の『禁じられた乳房』を鑑賞。
この映画を最後に天井桟敷の看板女優になる新高恵子演じる女囚が、娑婆に置いてきた赤子に会いたい一心で刑務所(ムショ)を脱獄するという話。
この手の女囚脱走もののヒロインといえば、後年の東映PV「さそり」の梶芽衣子や、日活ロマポならば「実録おんな鑑別所」の梢ひとみなど思い浮かべるところで、彼女らのクール&ビューティーの背景にあったのは「復讐心」だった。子供に会いたい「愛」の一心で脱走する新高恵子は、その社会の秩序に楯突く行為をするわりには、冷静さに乏しく、浅はか、そして弱々しい(言うなれば赤子は人質みたいなものなので確かに”立場”は弱い)。無力な新高が周りの人々のサポートによって初めて大願成就(子供救出)するというのが女囚脱走ものにおける新味(こっちの方が年度は早いが)と言えばそうなのだが、まあ個人的な好みの問題でしょう、確かに魅せるカットはあったけれど、これならば隠れてこきおろしていた『女王蜂の欲望』の方がよっぽど面白味があったと今になって思う。
しかし『禁じられた乳房』は、赤子におっぱいをあげることを禁じられた母親を意味すると同時に、この時代の映倫規定をも言い得てるようで妙。1966年の映画だが乳首はほんの一瞬ワンカット写っただけ。たった一年の差なのに、1967年のピンク映画の裸の露出度とは雲泥の差。



小川欽也監督のトークショー開始。75歳にして快活なしゃべり。まだ現役だしね。
今回特集の『女王蜂の欲情』と『禁じられた乳房』の16mmフィルムは小川欽也監督から借り受けたものらしいが、トーク冒頭に何故この二本を手元に置いていたのかを聴かれた小川監督はこんな風に答えた。


「『女王蜂の欲望』は大映の大石君(?)っていう、江戸川乱歩のお弟子さんがいて、その人が脚本を書いてくれたので残しておきたかった」と。


この小川発言を聴いたとき僕は”今まさに我が意を得たり!”と心の中で快哉を叫んだ。というのは、『女王蜂の欲望』はネタバレさせちゃこれから観る人に悪いという考えから、自分の日記には内容に関することを(面白いとか、つまらないとか、そんなような一言も)一切書かなかったのだが、この映画を観た知人のコメ欄にはこんな書き込みをしていたのだった。すなわち…


「いやあ、ぼかぁ、座席からずり落ちましたよ。ウッチー(※内田高子)を戒めるためだけに、この子供騙しの大芝居やトリックを、あくまで大真面目にやってる彼らを見て、なんか乱歩晩年の少年探偵団シリーズかと錯覚しました。ころころと激変する若者のキャラにもズッコケました。見方次第で、ある意味面白いんですが、まあ、おいおい…って映画でしたね」と。


少年探偵団シリーズの後期は「江戸川乱歩」の名前でゴーストライターが書いてたことは周知の事実だが、『女王蜂の欲望』の脚本家が乱歩の弟子ということなら、そのゴーストライターの一人だったかも知れないなぁ、ふむふむ、などと一人で妙に納得していたのだが、直後の鈴木義昭氏の「脚本は前原さんとありますが…」というつっこみ、それを受けての小川監督の「あ、乱歩のお弟子さんは『禁じられた乳房』の脚本の方でした」の一言に、”おいこら!小川!”と、ぼかぁ、またもや座席からずり落ちそうになりました。ほんと小川監督は僕をズッコケさせる天才だなぁ…。
というわけで『女王蜂の欲望』の脚本「前原昭児」は乱歩の弟子ではなく、TBSドラマ『月曜日の男』(待田京介主演の推理ドラマ)の脚本を書いてたときの小川監督の相棒だそうです。前原昭児は後に『破れ傘刀舟悪人狩り』での錦ちゃんの決め台詞、「てめえら人間じゃねえや!叩っ斬ってやる!」を作った人物だそうです。


『女王蜂の欲望』と『禁じられた乳房』を手元に置いておいたという話の流れで、大蔵映画のジャンク事情について語られる。あるときなどは、小川監督がロケから大蔵撮影所に帰って来たら、ブルトーザーで穴を掘ってて何をやってるのかと思ったら、フィルムからネガから全部その穴に放り込んで捨ててたそうだ。現在大蔵撮影所は「オークラランド」と呼ばれる遊戯施設等になっているが(世田谷通り沿いにあるのでバイクで渋谷に行くときはいつも前を通る。大蔵のトレードマークの「王冠」は今現在もかかげられている)、だからまだその地下を掘りおこせばフィルムがあると冗談っぽく言っていた。
他にも取っておいたネガが何本かあったようだが、撮影所の改装にともない紛失。小川監督がトーク中、しきりに”おばけ映画”と繰り返してた『生首情痴事件』『怪談バラバラ幽霊』のフィルムは、小川監督ではなく誰か他の人が所有していた物らしい。
そして、まだもう一本掛けられるおばけ映画のフィルムがあるという話が出て、”おっ!”となる。ここで言うおばけ映画とは、以前に某怪談映画本の執筆者と話題になったことがあって、いつか観たいと思っている『新怪談色欲外道 お岩の怨霊四谷怪談のこと(*1)。
これは「四谷怪談」を現代劇に焼き直したものらしいのだが、なんでも真ん中の三十分ぐらいが毛利正樹四谷怪談』(新東宝)の見せ場の場面を編集した映像らしい。ちゃんと新東宝から版権を買ったそうで、映画館で上映する分にはなんの問題もないが、例えばソフト化の話になると、また違った権利の問題が出てめんどくさく無理らしい。小川監督は真ん中の毛利正樹四谷怪談』部分をカットして、現代劇のところだけ繋げても全然行けるのにみたいなことも言っていた。トーク中、『新怪談色欲外道 お岩の怨霊四谷怪談』の主演女優をずっと三条まゆみと言っていたが、これは監督の勘違いでしょう。


『生首情痴事件』『怪談バラバラ幽霊』と来れば、同様に「大蔵怪談傑作選」としてソフト化されている『沖縄怪談 逆吊り幽霊・支那怪談 死棺破り』(*2)、と来れば監督の小林悟、と来ればピンク映画第一号『肉体の市場』、と来ればそのチーフ助監督だった小川欽也の撮影秘話も興味深かった。
「婚約者と来ていた女性が、トイレの中で犯されたんですよ。犯された女性と婚約者は、ビルから飛び降りて死んだ…。みんなが、そばにいるんだ。いるんだけど、そこで犯されたり殺人が起こる。これからの世の中、だんだんこうなって来るんじゃないかなって気がすごくした」というのは『肉体の市場』について監督・脚本の小林悟が語った言葉で、六本木で実際起きた事件をモチーフにした映画だったようだ。この頃の六本木は流行の最先端を行く若者たちが跋扈した街だったらしく、その中から加賀まりこ大原麗子、一星ケミらをメンバーに擁する「野獣会」も生まれた。
小川監督曰く、六本木の交差点で若者達がミュージカル映画ウエスト・サイド物語』のように踊ったり、それをそのときはカメラにズームがなかったので、コマ撮りしてそのように見せたという。フィルムセンターに『肉体の市場』は一巻だけ保管されているらしいが、残念ながらそのコマ撮りズームのシーンは入ってないらしい。
あと小川監督はこの頃は「ピンク映画」とは言わず、予算が少ないという意味で「B級映画」と呼んでいたんだとしきりに言っていたが、「ピンク映画」なる語はこの一年後の1963年『情欲の洞窟』のロケを取材していた「内外タイムス」の村井実がそう書き出してから世に浸透したと言われているので符合する。ようするにピンク映画だろうが、一般映画だろうが、映画は映画ということだ。


他には、カメラはミッチェルを使っていたから機動性がなく、だからそういう映画の撮り方になったとか、椙山拳一郎が天井桟敷の舞台に出ていたとか、女優についての思い出話とか、中でも『恋狂い』の左京未知子は胸と尻に当時では珍しくシリコンを入れていて歳とってもそこだけ引っ込まないとか、劇場が「小川欽也」の映画を欲しがるので今でも年に二本ぐらい撮っているとか、そんなようなことをちょこちょことしてお開き。



(*1)
テレビで『必殺仕事人』を観ていて琴線に触れたものがあった。第54話「呪い技 怪談怨霊攻め」ってやつなんだけど、監督松野宏軌の演出も毎度のことながらスタイリッシュで美意識に溢れてるわけだが、まあそれはともかくとして、これは必殺版の「四谷怪談」で、冒頭、伊右衛門のポジションに主水、戸板に打ち付けられたお岩にりつ、その裏にせんで、”執念深いカカァとババァめ、養子のおれを馬鹿にしくさった酬いだぁ、くたばれぇ!”と(笑)、プログレ的なかっちょええ音楽にのって盲滅法に幽霊を斬りつけ、もんどり打つ主水、いやそれよりも、わが菅井きんのお化けメイクに大爆笑!!!!
まあこれは主水とせんが見た夢なのだが、本筋の方も四谷怪談のパロディで、登場するのは民谷伊右衛門ではなくて”宮田宇右衛門”(笑)、まあ映像化された四谷怪談ってのはたくさんあるが、同じ四谷怪談でもそれぞれで伊右衛門やそれを取り巻く人物の描かれ方が全然違うわけ(お岩のお化けメイクもね)、たとえば天知茂佐藤慶が演じた伊右衛門は美しく咲いた悪の華なんだけど、今回の必殺版の伊右衛門ならぬ宇右衛門は、タイプ的に1959年に三隅研次が撮った『四谷怪談』の長谷川一夫で、これは数多ある四谷怪談の中でも異色の伊右衛門像に思われ、それというのもこの伊右衛門はお岩を殺したり毒薬を飲ませるという気がさらさらなく、お岩殺害計画は伊右衛門の全くあずかり知らぬところで、全て周りの直助グループによって行われるという。しかも最後は、伊右衛門が殺されたお岩の怨みを晴らすため、直助らを全員斬り捨てるというね、まあ必殺版は仕事人の殺しがなきゃ話にならんので、宇右衛門は妻の敵に襲いかかるも返り討ちにされちゃうのだけれど。
ちなみに三隅版『四谷怪談』は、戸板に死体を釘で打ち付けるシーンもないし、伊右衛門はお岩の父親を殺さないし、とにかく残酷度・非道度が低めで、長谷川一夫だからなの?って邪推してしまうんだけど、他にユニークな四谷怪談では、新東宝といえば1959年の監督に中川信夫伊右衛門天知茂の『東海道四谷怪談』が傑作の誉れ高いけれど、同じく新東宝で1956年に毛利正樹が撮った若山富三郎伊右衛門の『四谷怪談』、これは躊躇しつつも結局お岩を自ら殺すことは殺すのだが、殺したことにいつまでもくよくよし、”岩、許してくれ”と最後までそんなことを言って死んでいく、なんとまあ情けない伊右衛門なんだが、この四谷怪談の新機軸といえば、誰よりも悪いのが伊右衛門の母親という、伊右衛門にお岩を殺すことをたきつけ、終いには母親は直助(田中春男!)と組み、煮え切らない伊右衛門を脅迫までする始末…。
と、仕事人のことから随分話がそれてしまったけど、まあ四谷怪談にもいろいろバリエーションがあるってことですね。新東宝1956年版『四谷怪談』の映像を多く引用してるらしいのだけど、大蔵のピンク映画版「四谷怪談」、一度でいいから観てみたいもんです。


(*2)
『沖縄怪談 逆吊り幽霊・支那怪談 死棺破り』1962/小林悟・邵羅輝
死んだ夫の葬式もすまないうちに美男子に結婚を迫る不貞の未亡人・一条美矢子。美男子の発作には人間の脳ミソが効くと知るや、男に狂ってる未亡人は死棺を開けて亡夫の脳ミソを取ろうとし、結局は妖術使いで本当は死んではいなかった旦那に焼き殺される「支那怪談 死棺破り」。未亡人・一条美矢子のブサイクな顔がもうすでに怪談。どうでもいいが、ドラゴンブックス『吸血鬼百科』には「支那怪談 死棺破り」のスチールが掲載されていたりする。
「沖縄怪談 逆吊り幽霊」の方は四谷怪談の翻案とも言うべきストーリー。妻の浮気を心配し嫉妬に狂う大原譲二に、その身の潔白を示すために自ら片目を潰す妻・香取環。四谷怪談を翻案としているならば、当然この「お岩」と言うべき香取環は顔が腫れた化け物に、そしてこの妻を見捨てて他の女と結婚を目論む「伊右衛門」大原譲二と、香取環殺しを吹き込む悪者「直助」のような若宮隆二。結局殺された香取環は片目が潰れ爛れたお岩となって登場(お岩メイクの香取環!)。しかも逆さ吊りで!これに悩まされた悪者たちは、死体の足を釘づけすると幽霊が出ないことを知り、墓を掘り返し死棺を開けて顔が青すぎるキッチュな死体の足に釘を打つ。この時の”ギャー!”と叫ぶ死体がちょっとだけ怖い。「釘を、釘を抜いておくれ〜」と和尚に頼む幽霊、和尚に助けて貰い見事復活した幽霊は悪者たちを祟り殺してめでたく成仏。しかしバーに現れる幽霊というのはちょっと珍しい、そして日華共作(?)だからなのか喧嘩のシーンがカンフーなのがバカ。

 AQUIRAXの個展のオープニング・パーティーのビンゴ大会でフィーバーするの巻(前フリ)

某月某日
K氏のお誘いで銀座の福原画廊に宇野亜喜良の個展&オープニングパーティーを見に行く。
狭い会場は人で溢れかえっていたが、アキラックス夫人が画廊内に引き入れてくれた。たくさんの人に囲まれ、常に誰かに話しかけられているアキラックスは随分と遠い。
寺山修司の戯曲『星の王子さま』をモチーフにした新作を人をかき分けながら眺める。やはりいい絵だなぁと思ったものはすでに売れていた。
ワインは飲めぬし、夫人が「ここの美味しいのよー。恵比寿のお店なんだけどね。食べて食べてー」と言って盛り付けた名称のわからぬ食べ物を二、三個パクついて、室内も暑いし、ウンチョスをしたくなったのもあるが、部屋の隅でおとなしくしているという当初の予定どころか、室外のトイレ前にこっそり隠れていた。
したら、僕が知らぬうちにK氏から夫人、夫人からアキラックスへと話しが行っちゃったようで、「サインして貰えるからおいで」とK氏が呼びに来てビビった、動揺した、怖じ気づいた。というのは、会場の様子を見ていたが誰もそんなことしてる人いないのと、アキラックスの著作を持ち合わせていなかったからだ。
しかし備えあれば憂いなしと思ったのかどうか自分でもよくわからぬが、出掛けにいちおう寺山修司の本をバッグに入れたのが幸いした。夫人に口をきいてくれたK氏の顔に泥を塗るわけにはいかない。意を決し、でもおそるおそる…、アキラックスとミエコ夫人に挨拶をした。


「この方(migime)は寺山修司さんとかあなた(AQUIRAX)のファンみたいでよく知ってるの。サインして欲しいんですって。あら、これ古い本(*1)ねー」
「宇野さんのファンでもありますが、奥さんのファンでもあるんですよー」
「またお世辞言っちゃってーははは」


みたいな会話がなされ、持参した本を開きサインするアキラックス、終わりかと思いきや、さらさらとイラストを描き始めた!!!!
このはからいには感激しまして、何度もアキラックスと夫人にお礼を言ったのでした。嗚呼、いま思えば、AQUIRAX夫婦とmigimeの三人で写真撮ってもらえばよかったぜと軽く後悔。


アキラックスとはしゃべれなかったけれど、夫人とはまあまあしゃべれて楽しかった。「最初は大映とか日活に出てたんですねー」と言ったら、「忘れたい過去よ」と言いながら、そのとき所属していた事務所の話をしてくれました。アキラックスが描いた天井桟敷の「星の王子さま」のポスターが好きですとか、アキラックス夫婦の新婚時代の話とか、新婚のときの夫人の髪型がアキラックスが描く人魚姫みたいだとか(人魚姫の目も夫人の若い頃に似てるんだよなぁ)。しきりにあなた若いのによく知ってるわねえという夫人、


「フラワーメグって知ってる?」
「知ってます」
「あら!さっきまでそこに座ってたのに。おばさんになっちゃったけど」
「えー!うそーん?!」


全然気づかなかったが、しきりに寺山修司は最高よねと繰り返していたあの人がそうだったのか。その他、有名人では和田誠がいた、記帳に七戸優の名前があった。


(*1)そう言われて帰りに奥附見てみたら1968年発行の初版本だった。40年前か。



パーティー後、K氏とM女史で改めて食事。そのときラピュタでおこなわれた藤純子トークショーの話になる。M女史に「藤純子好き?」と聞かれたmigimeは答える、「好きだけど、でも結局、藤純子より集三枝子の方が好きだな(おっぱいも出すし)」と。「まあそんなもんですよ」とK氏。これ別にさっきまで会ってた(すげえ気さくで話しやすかった!マジいい人!)だからというわけじゃなくて本心。ほんとにキュートだったもんな、和製マリアンヌ・フェイスフルの集三枝子は。やさぐれ感も。藤純子と違って裏街道の人だろうけど、でもそんなもんよ。


アキラックスが描いてくれた人魚姫!!!!

 今夜は久保新二ナイト〜久保チンは天才!!

4月11日、今夜は久保チンナイト。昼間のうちにラピュタにてチケットを取る。それから渋谷へ移動。


(中略)


向井寛『暴行少女日記♀』上映開始。
ここに来て疲れと眠気がマックスマラー(下ネタかよ!)に。上映中、何度も落ちて、ところどころ抜ける。


(中略)


今夜は久保チンのエアセンズリで登壇するパフォーマンスもなく、トーク中の下ネタ表現も心なしかオブラートに包まれていたような。
しかし久保チンはほんとよく喋る。止まらない。面白い。頭の回転が速い。朝まで喋り続けるかという勢いだった。
もう時間もないので終わりましょうと、最後に来週のゲスト野上正義が登壇し挨拶。でも野上&久保が揃ったここからがまた長かったりして(笑)


トーク終了後、ロビーで久保チンにサインをねだる。ポルノの帝王・久保新二を主人公にした半自伝的官能小説『性豪 ピンクの煙』(名著です)に、”サインと何か男と女に関する座右の銘みたいなものがあればそれもお願いします”と無理な注文をする。
すると、”俺はあんまり言葉とか書かねえんだよな”と言いながら、まずはさらさらと絵を描き始めた。

キターッ!!!!未亡人下宿、国士舘大学の尾崎君だっ!!!!

そのあと「痴漢・未亡人下宿シリーズ 久保新二」といただき、最後に座右の銘(?)らしきもの「長いお付き合い」をいただく。長いお付き合い、長いお付き合い、ブツブツ、ブツブツ…などとやってると久保チンに”うるせーな!コノ野郎!”と怒鳴れそうだが、うーん、なかなか深い言葉だね。
そのあと日付を「21.4.21」と書いたのはご愛嬌。



久保チン、ほんとありがとぉぉぉー!!!!(感涙)


追記−
気になっていたので、「日××二」って久保チンの変名ですか?と失礼な質問をぶつけたところ、”違う違う、実際いた人。ねー、日××二っていたよねー”と野上正義にふって、ガミさんも”いた、いた”と。ただの僕の早とちりでした。でもすきっと解決。