寺山修司は天井桟敷のポスター画を丸尾末広に依頼しようとしたことがある

 昨日は中野タコシェ丸尾末広展に行った。まあ「展」と言うには、私が知る限り、展示物が過去最低のあまりにしょぼい内容なので(非売品の原画は過去に見たものばかり。目新しい展示は、実質色紙と短冊しかない)、よっぽどの信者以外は別に行かんでもよろしい。かくゆう私も、中野はバイクの駐車違反取り締まりが厳しいので、タコシェ店内に入るや、まず恒例の丸尾アイテム購買の抽選用紙をもらい、『笑う吸血鬼』のネームを全部読んで、色紙を一瞥して、さっさと店を立ち去った、その間おそらく五分(早っ!)。なんだろ?別に新作が出たからそれに合わせて、とかゆうのでもなく、新作のTシャツが出たとか出ないとかそんな感じの丸尾展だったのかしらねえ。よくわかりませんけどね。

 『笑う吸血鬼』ネームでは、ジョン・ウエイン・ゲイシーにレイプされたルナ、スカート一陣の風でめくれあがる、オシリ丸見えのショット、まあ自分だけがわかる極私的メモまで。にしてもネームの粗雑な線の方がポルノグラフィックで卑猥。一点だけあった色紙の文句、

白妙の袖おりかえし恋なればいもの姿ゆめにし見ゆる

アンチ丸尾末広を標榜する私はこういうのが一番引っ掛かる、なるほど、どうやらこれは室町時代後期から民間で行われていた呪いの一種で、江戸時代の呪法手引書にもその記載があり、大正時代には女学生の間で流行したということなので、マルオ的にはおそらく大正の女学生経由だろうなと思う。これは”愛人に夢で逢う呪い”であるらしく、床の中でこの歌を繰り返し唱えながら眠ると夢の中で愛人に逢うことができるそうだ。ただし、死んだ人を思いながらやると、自分があっちの世界に呼ばれてしまうそうなので、やってはいけないんだと。気をつけようね!

 売り物はみどりちゃんの色紙大が1枚、色紙小2枚、短冊3枚、『笑う吸血鬼』ネーム6種。展示してあった非売品の原画にも一応ふれておくと、日本テレビ「月曜映画」で使われている絵、『笑う吸血鬼』扉絵、ビデオスターリンのイラスト(『丸尾画報1』所収の、ジーン・フォウラー・Jr『心霊移植人間』(画像1)からいただいてるやつ)、他には演劇集団池の下の『伯爵令嬢小鷹狩掬子の七つの大罪』(エルンスト・ルビッチ『山猫リシュカ』のポーラ・ネグリ(画像2)からいただき)や『犬神』のポスター画もあった。
 ちなみに「演劇集団池の下」というのは、”寺山修司全作品上演計画”という(池の下は何作が観たことあるけれど)無謀と言おうか、心意気だけは天晴れと言おうか、まあそんなことをぶちあげた劇団で、2001年8月に予定されていた『邪宗門』の公演前に、突然の活動休止を宣言し、2004年に『大山デブコの犯罪』で「池の下」として活動を再開した。池の下による寺山修司全作品上演計画の宣伝美術はすべて丸尾末広の手による。
 池の下を媒介してるとはいえ、寺山修司×丸尾末広だなんて好きな人にはまったくもってたまらない垂涎の組み合わせであろうが、実は過去には寺山と丸尾が直接つながるかも知れないことがあった。ファンの間でもほとんど知られていない事柄かも知れないが、寺山修司天井桟敷のポスター画を丸尾末広に依頼しようとしたことがあったのだ。

寺山修司といえば、丸尾末広を高く評価していたのも彼であった。なくなる直前の公演の「新・邪宗門*1のポスターを丸尾末広に頼んでほしいと寺山修司は私にいった。(高取英/『続官能劇画大全集』あとがきより)

 高取英といえば、現在「月蝕歌劇団」の主宰をはじめ、劇作、演劇評論、漫画評論などで活躍している人物であるが、その昔、いわゆる三流エロ劇画誌と呼ばれた『漫画エロジェニカ』の編集長を1977〜80年のあいだ務め、それと並行して1976〜83年のあいだ「天井桟敷」に在籍、その在籍年度からもわかる通り、”寺山修司最後の弟子”と呼ばれた寺山修司側近中の側近である。その高取英が『続官能劇画大全集』のあとがきで、上記のことを言っていたのが私にはとても印象的であった。
 
 そう、つまり寺山修司丸尾末広の存在を知っていたのだ。しかも高取英にそんなことを言ったということは、寺山修司は本気で天井桟敷のポスターに丸尾末広を起用しようとしていたに違いない。何故って、「丸尾末広」という名を一躍世間に轟かせることとなった、エロ劇画誌以外の雑誌に初めて載った漫画、あの「カリガリ博士復活」(1982)は、丸尾末広高取英の依頼によって描いたものなのだし*2、この当時高取英丸尾末広は確実につながりがあったのだから*3、頼まれれば丸尾末広がそれを断ることはなかったであろう。
 ここで少し整理をすると、丸尾末広のデビューは1980年、そして寺山修司が死去したのは1983年5月4日(4/22から意識不明)である。つまり寺山修司が目にすることが可能だったのは、1980〜83年4月までに発行された単行本『薔薇色ノ怪物』と『夢のQ-SAKU』、あとは『DDT』に収録された数編という丸尾末広最初期の作品*4だけである。ちなみに丸尾末広が手掛けた「黄金劇場」*5や「東京グランギニュル」(1984〜86)の演劇ポスターは、もちろん寺山修司の目に触れたことはない。丸尾末広は”空間の切り取り方”という点で、演劇と自分の漫画は非常に近いムードを持っていると言っているが*6寺山修司が演劇界で一番最初に丸尾末広を起用しようとしたことはなんとなく暗示的で面白いではないか。
 では、ここで何故寺山修司丸尾末広を高く評価していたのか?何故天井桟敷のポスターに丸尾末広を指名したのか?その理由はいろいろあったのだろうが、ここではあくまで一つの推論、もっと言えばただの個人的で恣意的な戯れ言を弄したいと思う。つまり、寺山修司丸尾末広に自分と全く同じ匂いを感じていたのではなかったか、ということだ。
 そう、実際、寺山修司丸尾末広はその”方法論”でよく似ている。たとえば寺山修司ジョナサン・スウィフトより着想を得て書き下ろした「奴婢訓」といえば、1978年の日本上演を皮切りに世界31都市で上演された天井桟敷の代表作であるが、この芝居についてある外国の批評家はこんなことを言っている。
 「視覚的にはフランスのシュルレアリスムルネ・マグリットマルセル・デュシャンの機械などの、驚くべき集合体を思わせる。寺山のオリジナリティは、内省者としてより、イメージの狩人としてのものだ。」
 この”寺山”の部分を、そっくりそのまま”丸尾末広”に置き換えることはできないだろうか。いや、できる、と私は思う。ここで私はふと丸尾末広のこんな言葉を思い出すのだ。
 「盗癖がある。小学生になる前から手癖は悪く、他所の子がいいものをもっていたりすると、よくかっぱらってバレぬよう床下に隠しておいたりした。」
 これは丸尾末広『夢のQ-SAKU』のあと書き「泥棒になりたい」での信仰告白である。”イメージの狩人”と”泥棒”とでは、その言葉のイメージが随分違うように感じるが、しかし実際のところは全く同じこと、ただ単に言いようの問題だけであろう。
 今でこそ大っぴらに寺山修司を盗作者呼ばわりする者などはいやしないだろうが、それでも私たちは、寺山修司をパクリの常習犯であると認めなければならない。中井英夫が「贋の金貨」というエッセイで、「(寺山を)初めから誉める人ばかりで安心した。だがそれもすぐその歌は大野林火中村草田男の焼き直しが多いと知れてからは、雨アラレの罵言に変わった」と、寺山修司のデビュー時のことを書いているが、それ以後も寺山の盗癖はおさまることはなく、寺山の作品は盗品で溢れかえったのだった。
 一方、丸尾末広といえば、昔の『ガロ』にこのような批判が載ったことがあるようだ。「バタイユの描いた目玉はエロスの象徴物であったが、丸尾の描く目玉は只の目玉にすぎない。故に丸尾は二流である」と。そして飴屋法水曰く、「僕の芝居に出てくれた時も、「ニセモノ」と書かれた紙を客に渡され苦笑していた」という。
 それにしても、ここまで寺山修司丸尾末広を盗作者・ニセモノ呼ばわりしていると、中にはふざけるな!と激怒する彼らの熱心なファンがいるかも知れない。まあ、そのようなファンなど、私は元より相手にしていないので、「引用」やら「オマージュ」やらと眠たい言葉を弄して、臭いものに蓋でもしていればよい。しかし、盗作だからといって、それがどうしたというのだ?盗んでいったい何が悪い?
 一つ言わせてもらえば、寺山修司丸尾末広の方法論は、パーソナリティが確立していないから人の真似をするのではなく、盗むこと自体を目的として盗みまくり、最後には自分の作品、他人の作品というオリジナリティの境界線を曖昧にしてしまおうというものなのだ。もっと言えば、「引用」とは境界線をはっきり引く行為であり、これではオリジナリティが曖昧にならないのである。つまり「引用」なんてものは、寺山修司丸尾末広のコンセプトから最も遠いところに位置する、まさに真逆の概念であることを私たちはもっとわかる必要がある*7
 そして盗作だからといって、それで寺山修司丸尾末広の魅力が損なわれるというのは大きな間違いだと思う。先にも書いたが寺山修司のオリジナリティは「イメージの狩人」としてのものだし、丸尾末広については、やはり飴屋法水が、丸尾末広の絵が高畠華宵花輪和一の真似で、寺山修司唐十郎ら先代達のイメージのつぎはぎであることもわかっているとしながらも、「その丸ペンの引き方、つぎはぎの手さばきが、丸尾の確固たるオリジナリティである」と喝破し、丸尾末広自身にしてからが、ドイツのシュルレアリストであるマックス・エルンストのコラージュを引き合いに出し*8、「絵柄がすなわち個性ではない」と断言しているのだ。そして、ついでにさっきの中井英夫に言わせれば、「かりに贋の金貨でもそれが輝いている限りは美しい」のである。
 さきほど私が、寺山修司丸尾末広に自分と全く同じ匂いを感じていたのではなかったか、と書いたのは、つまりこういう意味からであった。さまざまなイメージの渉猟者として、その泥棒的手際、その盗品を取捨選択するセンス、そのつぎはぎの継ぎ目さえ見せぬ天才的コラージュニストとして、丸尾末広寺山修司の直系であり、その正統な後継者である。と言ったならば、それは少し大袈裟な戯れ言であろうか。
 そんな丸尾末広は至極当然のごとく寺山修司からさまざまなものを盗んでいる。先ほども書いた丸尾末広の最初期作品(1980〜83年4月)だけを考えてみても、「青森県のせむし男」「毛皮のマリー」「犬神」「身毒丸」「田園に死す」「草迷宮」「初恋・地獄篇」などの具体的な盗品は言わずもがな、その眼前に繰り広げられる丸尾世界からして、すでに妖しげな寺山テイストがそこかしこに横溢しているのである*9
 邂逅なき師弟関係、丸尾末広は”寺山修司の最後の最後の弟子”である(と短絡的との誹りを恐れずに断言してみる遊戯)。弟子が師匠の技を盗んで一体何の不思議があるだろう。そして、そのような丸尾世界を目の当たりにした師匠の寺山修司はどう思ったことであろうか?まさか盗まれれたといって激怒することは万々あるまい。当たり前だ。自分だってそうやって過去の先達から盗んで来たのだし、後人に自分の作品を盗まれることは、寺山自身の自尊心をくすぐることだってあったかも知れない。そして現に寺山修司は、丸尾末広天井桟敷「新・邪宗門」のポスター画を依頼しようとしたのであった。
 そして、寺山修司がこの世を去り、1983年に果たせず消えた丸尾末広画による天井桟敷「新・邪宗門」のポスターという夢は、それから22年の歳月を経て、2005年に池の下「邪宗門*10のポスターという形で”半ば”実現した。確かに丸尾末広が手掛けた池の下のポスター群の中では、個人的に「身毒丸2000」と一二を争う素晴らしい出来であると思う。だがしかし、それでも私はこの池の下「邪宗門」ポスターに何故か少しの物足りなさを感じ(単にネームブランドに踊らされてるだけだろうか)、天井桟敷「新・邪宗門」ポスターという幻影に今も悩まされ続けるのである。

 ここで参考までに、寺山修司が死去した一年後の、つまり丸尾末広の初期の仕事にあたる東京グランギニュル「マーキュロ」(1984)の演劇ポスターを添付しておこう。現在の「邪宗門」ポスターと比べてみて欲しい。ちなみに私は「マーキュロ」のポスターを傑作だと思う。あともうひとつ、絵の感じ以外のことで言うならば、丸尾末広自身「人の真似をしても結局のところ自分の生理が出る」('96)と告白したように、確かに90年代以降、丸尾末広の神技的な泥棒の手際は、丸尾自身の生理によってだんだんと侵食され、錆びつき始めたことも老婆心ながら指摘しておく。
 しかし、もしも天井桟敷「新・邪宗門」ポスターが実現していたならば、それは一体どのようなものになっていたかなど、今の私たちには到底わかりはしまい。ほぼ同時期といえる「マーキュロ」のポスターを掲げたところで、その事情は大して変わりはしないかも知れない。ただ「天井桟敷ポスター展」などで、横尾忠則宇野亜喜良林静一花輪和一金子国義合田佐和子粟津潔建石修志などら、言わずと知れた傑物たちが手掛けた天井桟敷ポスターの中の一枚に、丸尾末広の「新・邪宗門」も混じっていたならば、これはなんとも素敵で楽しいことではないだろうか。そして、後にそれが伝説的なポスターになっただろうことは、誰が見てもほぼ間違いない事実のように思われるのだ。

*1:1983年「邪宗門」前半部分を改稿したもの

*2:丸尾末広の描くカリガリ博士のおおよそが、奇しくも丸尾末広に「カリガリ博士復活」(1982)の執筆依頼をした高取英、つまり"20年後"の高取英にそっくりというこのアナクロニズム高取英は、現代に復活したカリガリ博士なのか?!

*3:カリガリ博士復活」を依頼して以降も、高取英丸尾末広はつながりがあり、高取英は『丸尾末広ONLY・YOU』(1985)に「丸尾末広論 風俗と芸術の両性具有者」を書き、丸尾末広高取英・月蝕版「ドグラ・マグラ」(1997)のブックカバーを描いたりもしている。「夜想銀星倶楽部2・1/2」(1985)のインタビューでは「僕(丸尾)を一番最初に認めてくれたのも芝居の脚本家の高取英でしたね。あの人の批評はいつもホメすぎでテレくさいのね(笑)」とも言っている。

*4:1980「リボンの騎士」1981「不能少年」「血と薔薇」「童貞厠之介」「腐ッタ夜」「私ハアナタノ便所デス」「天然の美」「僕らの眼球譚」「少女椿」「あめりかうまれのせるろいど」「最モ臭イ遊戯」「最モ痛イ遊戯」「あらかじめ不能の恋人達2」「下男の習性」「美しい日々」「腐ッタ夜・エディプスの黒い鳥」 1982「腐ッタ夜 ちんかじょん」「ウンコスープの作り方」「奇跡の人 」「カリガリ博士復活」「少年Z」「せんずり千太」「地獄の一季節」「童貞厠之助・パラダイス」「雪子ちゃんの視た夢」「初恋・壹萬壹阡鞭譚」「少女地獄」「月食病院」「きん玉のにぎり方」「笛吸童子」「月よりの使者」「99万人の生娘(雪子!頭を低くお尻を高く)」 1983「ヴァンパイア」「プロレタリアートの秘かな愉しみ」「あらかじめ不能の恋人達1」

*5:「黄金劇場」詳細不明。ただ丸尾末広の発言から、1984年前後に丸尾末広が宣伝美術を担当したものと思われるがハッキリしたことはわからない。担当したのは「ギバ太陽燈」「ともあれあれれ クロノート電ドロイド」「サイ臓器ノヴァ」と三本だけ確認(前の二つは『新世紀SM画報』にも掲載)。余談であるが、リドリー・スコットブレード・ランナー』のイメージで、芝居の最初から最後まで雨を降らせるような劇団だったようだ。他に、豚を出す、アヒルを出す、納豆ぶちまけるとのこと。「黄金劇場」の情報募集!

*6:「たとえばテレビで演劇を観ても全然おもしろくないでしょ。それはテレビの画面が空間を限定しちゃって観る人の視線が画面に限られちゃうからなのね。漫画ってのは限定された紙の上での展回なんだけどコマを割ることで観客の視線をあちこちにとばしてやれるんだよね。だから僕(丸尾)、コマ割りとか意図的にやってる。」(『丸尾末広ONLY・YOU』インタビュー・1985)/「僕(丸尾)の場合、映画的な流動感のあるカットというのはあまり描かないんです。ちょっと活人画みたいなね、突然場面が転換して、その場面がストップしながら、また別の絵に転換していくような…。こういうのって演劇的ですかね。」(『夜想銀星倶楽部2・1/2』インタビュー・1985

*7:オリジナリティの境界線をはっきりと引き示す「引用」や、パクネタを細かに列記することこそ、アンチ丸尾末広的である。

*8:「エルンストはすぐれて非情緒的です。それと「百頭女」のような銅版コラージュは絵から「絵柄」というやっかいな問題を解放しました」(丸尾末広『丸尾画報1』1996)

*9:参考ながら、天井桟敷の岸田理生は、「見るために両瞼を深く裂かむとす剃刃の刃に地平を映し」という寺山修司の一首を、丸尾末広の作品世界と似ていると言っている。(『DDT』あとがき・1983)

*10:池の下「邪宗門」2005年3月に上演。「寺山修司全作品上演計画」のひとつ。このシリーズのポスター絵は全て丸尾末広による。ポスターデザインは天井桟敷の森崎偏陸。このコンビを22年前に見たかった。またオクラになった2001年度版「邪宗門」宣伝美術の存在も個人的には気になるところではある。