長谷部安春『襲う!!』

 ベートーベン交響曲第5番に翻弄され犯される女の身悶え
 それはその実、”運命”なる色棒をあやつる指揮者の戦慄に等しい!


 試みに長谷部安春監督の『襲う!!』の”冒頭切り裂き惹句”というか、そんなつもりで惹句もどきを書いてみたのだけど、難しいですね…。
 『襲う!!』は、男が女をレイプする、そのファースト・コンタクトの際、バックに流れたのがベートーベンの交響曲第5番で、いわゆる”運命”だった。ほとんどギャグとも取れるタイミングで流れ、これほどわかりやすい選曲もないものだが、わが国ニッポンでこの選曲がなされるとき、それは決まって何か大きな衝撃を受けたときや、突如不幸に襲われたようなときであって、あの”ダダダダーン”というのは広くそういうイメージなのである。ならば、女が男に犯されることは不幸?
 もちろん強姦は女性にとって不幸の訪れであるに違いないだろうが、この映画の話しで言えば、それは否である。交響曲第5番第一楽章冒頭の”ダダダダーン”について、ベートーベンは”運命はかく扉を叩く”と言ったが、そのようにこの映画では、犯される者と犯す者の運命の扉がひらかれたのだ。
 例えば、マゾヒストと呼ばれる者が、サディストと呼ばれる者の扱いを十分熟知していないとは言い切れぬように、実際どちらが真の支配者であるかはわからない、というよりも、SはMであり、MはSであると言った方が正しい。このような関係性はこの映画においても同様で、犯す者と犯される者はいつでも置換が可能なのである。
 この映画のファースト・レイプは、一見、男がそのそそり立った暴力的な男根でもって、”これが運命だ!”と言わんばかりに女を征服したように見える、こういう女に有無を言わせぬ、そして自らも何も言わぬ、圧倒的なレイプ衝動、暴力感覚というのは長谷部安春独特のものだと思うが、実はこのファースト・レイプのシーン、僕は前述の意味で、ここが全く違うふうに見えてしまった。
 目隠しされ、口をふさがれ、手錠をかけられ、無言で犯される女の恐怖、息苦しさ、激しい抵抗、つまりその女、”小川亜佐美の身悶え”は、バックのベートーベン交響曲第5番も相俟って、自らが”運命”を司る神だと言わんばかりに、指揮棒を大きくかかげて振る指揮者のごとき動作に見えて、その女の身悶えに戦慄と同時に崇高ささえ感じてしまうことを、僕は禁じ得なかった。
 ここで言う「指揮棒」とは「色棒」であり、もっと言えばレイパーの「男根」である。この「指揮棒」をかかげた女は、犯されながら、その実、すでに犯していたのである。そのとき女は指揮者すなわち「色者」として開眼する。自らで抑制した性意識から、”運命”によって、女が色者へと変貌していく過程は、是非映画を観て確認してもらいたい。
 なお本編では、レイパーの顔および正体は一切明らかにされないどころか、声さえ一言も発せられない。完全に謎の男で、その得も言われぬ不気味さに、”この男は本当に実在しているのか?”とさえ思われてくるほどであったが、DVDの本編観賞後、併録の予告編を観て一つ興味深いことがあった。なんと予告編では、この男、ちゃんとしゃべっているのである。
 ”オレは影さ、あんたという女がはらんだ”
 これはとても面白いと思う。さきほどの話ではないが、犯される者と犯す者の置換可能な関係、これは言い換えるならば、両者はイコールということ、そして、影が言う”孕む”という表現。影を孕んだ女は、同僚のエロ本をこっそり見てはすぐに本を閉じてしまうような、性に関して人一倍興味はあるくせに、それを無理に自ら押し殺している、性的に抑圧されてる女、しかも性的自意識も過剰で、これはもう影を産む素養は完全に備わっている。つまり、女を犯した影男とは、女の欲求不満や性的妄執が作りだした産物、怪物(妄獣)であって、そうなると影男の、あの女がいるところには、どこにでも突如として現れる神出鬼没レイプぶりも合点がいく。
 例えばホフマンの有名な怪奇幻想譚『砂男』などを思い浮かべてもいいかも知れないが、このように夢とも現ともわからぬが、精神に何らかの変調がある者の過度な妄執が実際具現化して動き出すというのはよくある話で、映画の中で女・小川亜佐美が見せるあの精神病者か、または夢遊病者のそれのような虚ろな目(!)や薄ら笑い、そういうものを見るにつけ、やっぱりこれは長谷部安春にとってはヒジョーに珍しい怪奇幻想譚、一種の黒いファンタジーだと思えて仕方ない。
 最後に老婆心ながら付け加えておくと、予告編で声は聞けても、やはり影男の顔や正体は依然不明のまま。流れるクレジットにさえ名前が出てこないのである。やはりこんな男は最初からいなかったのかも知れない。