S監督に突撃取材を敢行す、の巻

の部分は、身内に怒られたので消しました(笑)。


(中略)

 まあ、別にその腹いせというわけでもないし、仕方なしにというわけでもないが、15日はポレポレ東中野沖島勲オールナイトに行き、沖島勲足立正生の漫談を聞き、若松孝二の『性の放浪』と『性犯罪』、渡辺護の『紅蓮華』を観た。
 この若松孝二の二作品は、いままでソフト化もされておらず(おそらくこれからもされないと思う)、またCSでは放送するチャンネルがないし、第一、『花弁のしずく』のCS放送の件を想起すれば、この若松の二作品ともフィルムの状態がお世辞にも良いとは言えないので(それとも映写技師の腕のせいなのか?)、やはり劇場以外では観られぬ代物だろう。もしもこれらがまた掛かるとすれば、それは若松孝二の新作公開イベントで、新宿で11月から4回催される若松プロ作品のオールナイト上映か(しかし、若松プロの映画は大量にある)、もしくは若松孝二が死んだときの追悼上映だろう(しかし、それまで上映に耐えうるフィルムが残っている保証はない)。
 ようするにどちらもココで観なかったら、もう一生お目にかかることができない可能性もある珍しい映画で、それに加えて、特に『性の放浪』は、”金沢に行かんで、これ観に来てよかった!”(ま、負け惜しみじゃないぞ…)と思える傑作だった。若松孝二の映画を全部観ているわけではないけれど、こんなオモシロ、オカシク、アッケラカン、ヒョウヒョウとした喜劇的なロードムービー(まさにタイトル通りの、蒸発人間・山谷初男の”性の放浪”)が他の若松作品にあったかどうか。沖島脚本の軽妙さもいいが、とにかく山谷初男のとぼけた味わいは嬉しかったの一言に尽きる、クスクス、クスクスと笑わせてもらった(凶悪脱獄囚ガイラの大狂演はガハハ!と笑った)。
 そう、確かに『性の放浪』はとてもよい映画だった。まあ、それはそれとして、これからは別の話になるけれど、この沖島オールナイト、率直な感想を言わせてもらえば、なんだか閑散としていて、静かで、何か寂しいような感じがした。立ち見までとは言わないけれど、おそらく満員にはなるぞと思って前売り券(ちなみに整理番号は2番)なんぞ買っていたのだが、当日は目立つ空席になんだか拍子抜けした(あるブログには約60人の入りとあった。ポレポレは110席)。
 こんなこと思ったのは僕だけだったかも知れない。というのには、やはり金沢の幻影に取り憑かれていたってことがある。東京から出向いた人たちの、金沢のフィーバー、大盛り上がりぶりを日記で読むにつけ、どうしてもそれと比較してしまうんだなぁ。沖島オールナイトにはそれなりに満足しているが、それでも祭りの方に出られなかった「居残り」という思いが拭えないのも事実。しかし、トーク沖島勲が脚本作品の『性犯罪』にふれて、学生街の夏休み、学生らがいなくなったあとの閑散とした、がらんとした街、それでも帰郷せずに下宿のすみずみに居残っている者もいて、そういう白昼の学生街、白々しい雰囲気、一種の白日夢のように事件が起こり進むという世界、みたいなことを言っていて、そういう意味で、奇しくも、この日、このタイミングで『性犯罪』を観ること、この偶然の一致ってなんだろうって、これはただ「観る」ことでなくて「体験」にまでいたらしめるトリガーであった。東京の映画館から知り合いがいなくなった、僕にとって、この日のポレポレは閑散とした夏休みの学生街であり、僕はその居残り組だった。スクリーンの映像がぼやけたり、二重になって見えたのは、僕を含めた居残り組だけが見た白日夢だったのだろうか。そうだ僕は時限爆弾を抱いて独り自爆しよう。しかし考えてみれば、この日のこのムードも一種独特、確かに悪くはない、いや、むしろ僕の性には合っていたようにさえ思いながら、白々明けの甲州街道をひとり原チャで夢見心地に帰った。そのまま蒸発しちゃってもよかったけれど。