金色のすすき、世界は光り輝いているか〜『昼下りの情事 変身』備忘録

昨年の『花弁のしずく』のときも同じことを思ったが、幻だと思われた田中登の映画をまさか今年もニュープリントで観られようとは夢にも思わなかった。残るは『好色家族 狐と狸』と『もっと激しくもっとつよく』か、いっそラピュタ阿佐ヶ谷田中登の全作品をかけてしまえばいい。
体調不良のため全く通えなかった今年の「日活ロマンポルノ名作選」であったが(絵沢萠子トークに行けなかったのには、まるで失恋したかのように落ち込んだ)、それでも田中登『昼下りの情事 変身』だけはどうしても…と這って観に行ったのだった。



開巻の美しい朝日のショットから、きっとこれからドキドキするような出来事が眼前に繰り広げられるに違いないという期待感で、すでに感動的ですらあったのだが、細く開けられた襖と襖の間から見えるヒロイン青山美代子の着替え、乳房の美しさ、またそれをふと覗き見ては布団に潜り込んでしまう思春期の弟のショット、この秀逸なタイトルバックからして、これから起こる、絵沢萠子に言わせれば「出歯亀」の連鎖、覗きの相姦図を暗示しているようではないか。


実際この映画の登場人物たちは覗いてばかりいる。試みに書き出してみると、弟は姉・青山の裸を、その青山は会社のトイレで係長(浜口竜哉)と同僚(相川圭子)のセックスを(やってる男女、それを覗き見している青山を並んだ鏡に同時に写すカット!)、その係長は車の中でマンション(娼館)から出てくる青山を、他には片腕のヤクザ高橋明が妻(絵沢萠子)と弟(風間杜夫)の情事を、その弟はマンションで客(グレート宇野)にバックから突かれている青山を、そして映画館の暗闇で彼らの行動を神の視点で逐一覗いている一番の窃視症者は我々観客なのであるが、まあそれはともかく、例えば、杜夫が自分の部屋から窓越しに下を歩く青山に鋭い視線を向けるのも一種の覗きといえば言えなくもない。


不思議なことがある、と言ったらまあ大袈裟なんだが、最初に出てくる自分の部屋から窓越しに外を見る杜夫視点のショットは、故意だと思うが窓ガラスが汚れていて、視界が半分以上ぼんやりしている、何か現実世界に自らフィルターでもかけているような、少年の内攻性や鬱屈を感じるわけだが、窓がぼやけているショットはこれ以後一度も出てこない。それはいままで見て見ぬふりをしていた汚い現実が少年にとってだんだんクリアになって来た表れ(それによって憎悪の蓄積も倍加していく)、と言ったら深読みすぎるか。しかし面白いのは、例えば、お花の先生にお花を届けるとき、実はその先生(橘田良江)はコールガールマンションの住人であるわけだが、最初のときの杜夫視点、ドア越しに見る男(エキスパンダーをする若者という感じ)にピントが合っていないのでやはりぼんやりしている。しかし二回目のときは部屋の奥の男(何かを読んでいる老人)の姿がクリアになってきてるのである。つまり、美しいもの(青山)を知ってしまうと、いままでも醜いと思っていたもの(メイ&モエコや現実等)がますますその鮮明さを増して醜く映るということはあるんじゃないかと思う。


フィルターといえば、ヒロインの青山美代子も花を買ったときのビニールの包装を顔の前に持ってきて、それ越しに世界を覗き見るという行為をしている。またその姿が実に嬉嬉として無邪気なのだが、彼女の場合のフィルターは杜夫と違って、まるで汚い世界をきれいに映し出す一つの方法のようである。青山美代子は「嘘」で塗り固められた汚い世界に生きていると言ってもいい。
まず彼女の家族さえ「嘘」だ。家計をたすけ、たとえ笑顔で父や母と接していても、彼女にとって父と母は、杜夫にとっての兄や姉同様、醜く、いやらしい、憎悪の対象でしかないだろう。出掛けに母が差し出す沢庵を笑顔で口に含むも、それを道でくちゃくちゃ噛みながらペッと吐き出す。父と母は娘が娼婦をやっていることをうすうす知りながらも(婚約者・槇村正との会見態度から)、見ざる、聞かざる、言わざる、娘は単なる金づる。もっと言えば、暗部を持たないデキすぎの婚約者でさえなんだか嘘くさいのである。
また、昼はOLをしているが、夜は病気の父に代わり家計をささえるためコールガールマンションの住人、高級娼婦に「変身」する(「真っ赤な口紅」などイメージを繋げて行くいつもの田中登)。客をとる前の一人の時間はこれまた実に楽しそうにはしゃいでいる。いや、客と寝るときだって笑顔を絶やさず客受けも良さそうだ。しかし、セックスをしたあとの彼女の絶望感、悲愴感は半端なく、彼女は執拗に体の汚れをシャワーで洗い流す、いやむしろ自分自身を汚物とみなすかのように。その最たる例が、ハチミツを体に塗りたくられてセックスされた後のことであり、ここでキラキラと黄金色に光っている「ハチミツ」はまさしく「ウンコ」の象徴なのだ。黄金と糞の関係性(*1)などいまさら言うに及ばないだろうが、つまりハチミツなど普通にシャワーで流せばいいものを、その前にトイレットペーパーを体に巻き付けたあの行為は(どうでもいいが排水口が詰まりはしないかとドキドキしたぜ…)、自分をウンコ女、唾棄すべき汚らしい存在と内攻した結果だったのである。
だから、汚い世界に生き、汚物にまみれた彼女の現実逃避が、前述のビニール包装であり、また、杜夫との対話であったのだ。


青山と杜夫の本質にはなにか通底するものがある。深い部分で彼らはとてもよく似ている。そう、青山ばかりでなく、杜夫だってただただ清廉潔白に生きているというわけではない。大嫌いな兄嫁との度重なる情事がそれである。その最中、兄嫁に向けられる杜夫の憎悪に充ち満ちた物凄い目つき!(一方、モエコはそんなことは意に介さず、足の裏を杜夫に押しつけたり…)
しかしセックスを拒否するわけでも、その場から逃げるわけでもないこの矛盾、その憎悪の矛先は間違いなく自分自身にも向けられているはずなのだ。
杜夫と青山、花屋とその客、ゆえにそれほど多弁に会話を交わすわけではないけれど、もう一度言う、二人は深い部分で通底するものをお互い感じている。嘘に塗り固められた青山が、また杜夫が、「本当」の自分でいられるのはお互いが邂逅するその一瞬をおいて他にないのだ(花屋のガラス越しに「こんにちは」と杜夫に声をかけるときの青山の笑顔!)。そういう意味で、二人の邂逅はただそれだけで汚い世界の中で唯一美しい。
娼婦として客とセックスしているときに挿入される杜夫との絆、ラベンダーのカット、他の男に抱かれながらそれを見つめる彼女は一体何を思うのか。なんだかひどく物悲しい気持ちになってしまう。


そして、ついに杜夫の中に鬱積していたもの(モエコとの情事、メイのかつあげ、娼婦の媚態等々)が爆発する瞬間が訪れる。青山がコールガールと知ったとき、杜夫の中の花は枯れた。結局、青山も兄嫁などと同じく穢らわしい女だったのである、しかもその女はさらに婚約者と幸せな結婚生活をおくろうとさえしているのだ。別に杜夫と青山のあいだに何かしら具体的な約束などがあったわけではないが、魂でつながっていただろう二人、決して杜夫の自分勝手でもないし一方的な妄執でもない、もうこれは裏切りと呼ぶに十分すぎる。
しかし、紙飛行機で巻いたナイフによって刺殺される青山を見るにつけ、杜夫の復讐成就というよりは、青山にとっての救済だったような気がして仕方ない。これから始まっただろう胡散臭い結婚生活も含め、見せかけだけの嘘の世界からやっと抜け出せたのだから。
最後の、刺される前に少しのあいだ見つめ合った”汚くてきれいな二人”が忘れられない。



『昼下りの情事 変身』のセックス描写について。
まるでアダルトビデオ演出の嚆矢ではないかと思った。例えば、風呂場のガラスに泡まみれのおっぱいを押しつけながらやってるシーンが出てくるが、これなど今日の巨乳ビデオによく見られるカットじゃないか。泡がローションになってはいるが。他にもセーラー服を着させるジジイなど、コスプレのはしりだろうし、体中にハチミツ(生クリーム)を塗るというのもよくある手だ。
ただ、だからと言って『昼下りの情事 変身』で勃起するかと言ったら、全くしないのであるが…。大体僕はロマポでチンピクすることがまずないのだけれど(『ピンクのカーテン』の美保純だけは例外!)、それにも増して田中登の濡れ場はロマンチックにきれいすぎる。キラキラしてた。
余談だが、滝田洋二郎なんかは決まって女の股間をアップにし、そこを這う男の指づかいを執拗に撮り、パンツフェチ、観客を欲情させることに余念がない。それとは逆に神代辰巳なんかは、特にやはりラピュタで見た『濡れた欲情 特出し21人』(*2)に顕著だけれど、男も女もとにかくやってる最中よくしゃべり、またそれが可笑しいのでチンコなど立つわけがない。ロマポには濡れ場を何回とか何分とか入れろという規制があったと言われるが、正直言うと僕は濡れ場になると眠くなってしまうことが多々ある。いわば濡れ場はエアポケットで、いままでの流れが寸断されてしまうことがあるのだ。神代辰巳はそういうのを嫌い、また濡れ場の時間帯にそれ以外のことをさせないのは勿体ないという理由から、その最中にしゃべらせると、どこかで読んだような読まないような。まあこの二人は両極端なサービス精神の持ち主ということになるか。



高橋明の蛇皮の孫の手(男根の代替物)がすごい。それで器用に雑誌をめくるなと感心。
弟分の沢田譲治(映画でのクレジットはこう表記)とコールガール組織の織田俊彦をかつあげ。それを覗いてしまった形の杜夫。憎しみがつのる。
最後、絵沢萠子と共に杜夫にぶっ殺されるときのビックリ顔がウケる。青山刺すまでナイフは汚れてなかったから、撲殺だと睨んでいる。


浜口竜哉のファーストシーン、青山を見たあとに、相川圭子を見、「ウン」って感じで思いくそ頷く演技にバカウケ。アイコンタクトでも何でもないやろ!それ!
続圭子とカーセックスのあと、マンションから出てくる青山を覗き見、それをネタに体を強要するとか、いや、ほんと浜口さんは最高ですわ。


グレート宇野なる怪人を初めて見た。


槇村正なる謎の人物、鑑賞中ずっとどっかで見たことある…と思っていたら、Kさんの日記でこれまた氷解、ああ!金八先生の駐在さん(鈴木正幸)か!



白い薔薇にこすりつけられた青山の血。その血を見る杜夫の鋭い目つき。うーむ…




(*1)  エジプトでは神の化身でもある「スカラベ(黄金虫)」が「糞転がし」と呼ばれ、古代バビロニアでは「黄金」は悪鬼がした糞と信じられ「地獄の糞」と呼ばれていたこと、そして現代ニッポンの話でいえば、「うんこ」を「黄金」と呼んで憚らないメイニアが多いのも、もはや周知の事実でありますが、しかし、「うんこ」と「黄金」の関係について考えるとき、まず最初に僕の頭に思い浮かぶのは、フロイトでも、ダリでも、モローでも、ホドロフスキーでも、パゾリーニでも、石井輝男でもなく、決まって幼い頃に読んだ「少年ジャンプ」の漫画『燃える!お兄さん』に出てくるポキール星人なのであります。彼らはうんこを美味しそうに食べ、そして、お尻から出す排泄物は黄金という、まさに過去のスカ偉人たちも吃驚仰天の異星人なのであります。ちなみに、「ポキール」とは、ギョウ虫検査の際にエイナルにぐいぐりと押し付ける、あの検査シールの名称であります。
フロイトによれば、宝石や黄金に対する偏執は精神分析学的にスカトロジーと密接な関係があり、人はうんこと黄金を無意識裡に同一化するのだそうだし、サルバドール・ダリはその著作の中で、うんこと黄金の結びつきについてたびたび言及、「金銀宝石で光り輝いている暴虐圧政に身を屈する女性は、いわば排泄物にまみれている存在」だとか、たとえば画家のギュスターヴ・モローについては、「宝石や鎖やバックルや各種装身具などの集積で表現される糞尿趣味」、「偉大な絵画はすべて内臓から出発している。モローは、パレットを糞色で飾っている」などと断じ、ダリ自らも黄金でできた便器を作ることを夢想したり、映画関係でいえば、アレハンドロ・ホドロフスキーホーリー・マウンテン』には糞から黄金を精製する錬金術師が登場し、ピエル・パオロ・パゾリーニデカメロン』でもやはりうんこは黄金に変わり、石井輝男『御金蔵破り』では、新入りの囚人は牢名主に金銭を差し出し、その”お返し”は柄杓にくまれたうんこの顔面シャワー、そして、この映画の主人公、煙りの富蔵は盗んだ千両箱を糞桶の中に沈めて隠すのである(なんと象徴的な隠匿方法であろうか!)。「黄金の水(うんこ)が小判に化ければ文句あるめい」とは、片岡千恵蔵扮する煙りの富蔵の言。


(*2)  外波山文明の「男が死んで行く時に」が超サイコー!!!!だった。安藤昇以外は絶対語り不可能と思われた阿久悠作詞の仰々しい本作をこうも素っ頓狂に外してくるとは。素晴らしい。笑った笑った。昔ビデオで観たときには全く気づかなかったけれど、この映画の「なんけ節」は”太鼓バージョン”やんか!(叩き手はまずチョーリではないだろう)わあああ!ゆめまぼろし…!てっきり『〜一条さゆり』の冒頭と同じ音源かと思ってたぜ、盲点。外波山文明はアルゴリズム体操もしてましたね。ピタゴラスイッチ