2007年4月26日〜『ザザンボ』

まず、なんて不気味で、怖くて、どろどろと鬱屈とした映画なんだろうと思った。大体登場人物たちはほとんどが地元の人間を集結させたズブの素人集団で(本人たちはいたってそれが普通の状態なのであろうが)気分を害するぐらいに見ているだけでキモチが悪い。明らかにカンペを読みながら台詞をしゃべっているジジイは、そのためからくる眼球の挙動不審が狂人のそれのように見えることを結果的に強調するし、もう一方の主要なジジイは終始目を下に向け無表情で話し続けるので何を考えてるのかさっぱりわからない印象があり余計不気味に怖ろしく写る(これは『御巣鷹山』の中曽根とは全く真逆の方法論だ)、ババアやこの事件の元凶となった二十歳の孫もキモチが悪い、また彼らが使う福島弁(?)が僕からすればまるで呪詛の言葉をつぶやいてるかのようにも聞こえ(現に何を言ってるのかわからないかも知れぬという配慮からか彼らの言葉には字幕がつく)、もうこの雰囲気はただごとではないなと直感するのであったが、それは渡辺文樹がうわべのウマさとは無縁の監督であることも相俟っているだろうし(映画は観客に迎合する向きが全く見受けられないので拷問に等しいと言うならば否定できない)、近親相姦を含む閉塞的で土着的な異空間の息苦しさも、僕たちの身内にざわざわした不安を抱かせる一つの原因かも知れない。画的にザザンボ(葬式)の行列の風景などは単純に見せるものがあるし、美しいとも思ったけれど、それでも田舎の怖さというものは払拭できない。
にしても素人キャスト陣の中で、唯一うまいなと思ったのは、自殺であったか他殺であったかはつまびらかにはしないが死んだ知恵遅れの少年。あと唯一監督が観客にサービス精神を発揮したと思われたのが、結構可愛い女の子のおっぱいで、背中の痣を見せればすむところをそれですませなかったのは、単に監督が見たかっただけなのかも知れないね。
にしても、やはり渡辺監督の「自分大好きぶり」は映画の中に何度も見られ、炎なめの文樹の真顔とかね、もうそろそろ来るなと『御巣鷹山』の経験からわかってしまいました。無駄に雪の斜面を文樹がごろごろと転がり落ちたシーンに、僕は”来た!”と心の中で叫びましたね。まあ監督の「自分大好きぶり」は正直『御巣鷹山』の比ではないと思うんですが、結局は社会事件を暴こうとする正義の側になってしまうんですね。そういう意味で『ザザンボ』は渡辺文樹のターニングポイントを象徴する作品なのですね、これ以前の『家庭教師』や『島国根性』は、前者は家庭教師先の中学生と、後者は家庭教師先のお母さんとデキてしまう文樹の実体験を題材した、いわば自分をさらけ出した私映画なのだが(『父母の一日』という両親のセックスを隠し撮りした映画もあるらしい)、『ザザンボ』以降は、なぜか渡辺文樹の目は突如タブーな社会事件の究明の方に向けられるようになり、社会事件を暴く文樹は自分自身を正義のヒーロー視し始め、そのヒーロー道(ヒロイズム)を邁進して行くことになるのだと(そういう英雄的行為に対する憧憬は前野霜一郎の児玉邸事件を取り上げてるところにも見られると思うし、また渡辺監督のドキュメント映画『俺の流刑地』でも同様のことを繰り返し発言していたと記憶する)、まあ明日『バリゾーゴン』と『腹腹時計』を観るつもりなんですが(特に『腹腹時計』なんかね)、そういう確信にも似た予感がいまからしています。
まあこの映画のストーリーや、この映画にまつわる松竹との確執、訴訟問題などは、他でさんざん語られていると思うので割愛するとして、最後に鈴木邦男の言葉を引用して締めたいと思います。
「右翼であろうが左翼であろうが何であろうが、信念を持った活動をやっているとどうしても自分を正義だと思ってしまいがちなんですね」