山川レイカはタージマハールカを超えたか否か

映画『竜馬暗殺』については他で十分語り尽くされてもいるだろうし、いまさら僕がうだうだ言うことは何もないので割愛して、今からはトークショーの模様を、中川梨絵らによって語られた『竜馬暗殺』裏話などを中心に進めて行こうと思ったのだけど、ただトークショーの時間が30分ちょっとと短く、話の量が少なかったのと、また裏話も、たとえば幡の役は当初は山川れいかで、彼女が病気したため中川梨絵にお鉢が回ってきたとか、原田芳雄黒木和雄に引き合わせたのは清水邦夫だとか、台本ラスト近いあるシーンには「龍馬と慎太郎、青春を語る」とだけしかなくセリフが書いてなかったので、”生意気だ”と思い原田芳雄は現場で何もしゃべらなかっただとか、黒田征太郎と富田幹雄の資金調達は自転車操業さながらだったとか、撮影は京都のオールロケ(唯一竜馬が隠れていた醤油蔵は小田急線祖師谷大蔵にあった蔵。この蔵が発見されなければ、『竜馬暗殺』は産み出されなかった)で、お寺に皆で合宿しただとか等、まあ過去のトークショーや映画雑誌の追悼号ですでに語られていることばかりのような気もしないではないのだけど、それでも中川梨絵さんの歯に衣着せぬ発言はときに痛快極まりなく眼福ならぬ耳福(?)であった。



上の一文は、手前味噌ながら<復活 花弁のしずく>に掲載されている「追悼・田中登」から抜粋したものであるが、原文には「山川れいか」にアスタリスク・マーク(註釈)がついている。
つまり今回『日本映画人名事典』(キネマ旬報社)や『日本映画人 改名・別称事典』(国書刊行会)などを引いても載っていないこの謎の女優について話そうと思うわけなのだが、では、我々にほとんど馴染みのないこの山川れいかなる女優はいったい何者か?


例えば、試みに『竜馬暗殺』のDVDに収録された特典映像の「制作ニュース」を観てみると、なるほどトークショーの内容通り、そこには「中川梨絵」の名前も姿もなく、「山川れいか」のそれがある。原田芳雄にからみつき、最後に原田芳雄石橋蓮司桃井かおりと並んで歩いてくるこの女、確かにこの顔見覚えがあるではないか、そう、「山川れいか」とは山川レイカの変名だったのである。
たかだか平仮名と片仮名の違いだけで何が変名だなどと言ってはいけない。固有名詞においてこれは決定的な違いと言わざるを得ない(と、この大強引流なまくらを、苦しい台所事情を、いちいちつっこまないようにとあらかじめ釘をさしておく)。



山川レイカといえば、和製トレイシー・ローズと言われているかどうかは知らないが、最年少ポルノ女優として東映が売り出そうとしていた16歳の女の子で(*1)、1973年に『マル秘昇天トルコ風呂』に主演し、テレビなどでも取り上げられ話題になるが、”成人映画に16歳の未成年を出演させるのは良くない”という新聞の投書に端を発し、児童福祉法に触れるとかで問題になり、東映は結局山川レイカの映画を上映しないことに決めた。
この映画はのちに山川レイカが18歳になったのを記念し、1975年に『青春トルコ日記 処女すべり』(監督:野田幸男)と改題されて下番線で公開されるようになるのだが、ちなみに『青春トルコ日記 処女すべり』は、1973年当時の野田幸男に言わせれば「女の股下の呼吸で撮った」映画であり、またこの映画の助監督であった澤井信一郎の『映画の呼吸 澤井信一郎の監督作法』(2006)によれば、野田幸男は「下品がいい、下品な撮り方がいい」と言って、セックスシーンの勉強のために澤井を誘ってピンク映画をハシゴする日々だったとか。そして澤井に言わせれば、『青春トルコ日記 処女すべり』は「たいへんな異色そして意欲作」で、「猥雑なエネルギーに満ちた傑作」なのだという。



1973年当時は各メディアが山川レイカのことを一斉に取り上げていて、そこからも16歳のポルノ女優に対する世の中の関心、注目度が推察され、もしも映画が公開されていたならば物凄いヒットになったに違いないだろうが、しかしそれから二年後に公開された本作は、まず下番線での公開であり、さらにおそらくは短い公開期間であったため、実際46歳以下の人ではまず観ていないと推測され(*2)、またそれ以上の人でも観たことあるのはほんの一握りに過ぎないのではなかろうか。
しかもこの映画、単純なミスか意図的な除外か、まるで地方でしか公開されない謎(作品リスト不掲載)の東映ニューポルノ群さながらに、東映創立三十年と四十年の節目に編まれた二冊の社史の作品リストからも見事に落ちている不遇の作品でもあって、これに関して澤井信一郎は上記の本で「謎であり残念」とも語っている。


さて、それはさておき皆様は、ラブホ街のど真ん中にあるシネマヴェーラ渋谷なる名画座をご存じだろうか。へんてこな映画ばかり掛けることではラピュタ阿佐ヶ谷と並ぶ双璧であろうが、そのシネマヴェーラがここ数年欠かさずやっているものにカルト、モンド、マニアと呼ばれる映画に特化した「妄執、異形の人々」なる企画上映があり、まったくもってこの手の映画を嗜む輩を毎度毎度ゼッキョー、キョーキランブさせてやまないのであるが、それはともかくこの企画上映の最大の目玉といえば、なんといっても劇場が費用を負担してするところの珍品中の珍品のニュープリントであろう。ちなみに第一回目では『怪猫トルコ風呂』(1975/東映/山口和彦)、第二回目では『怪談せむし男』(1965/東映/佐藤肇)という幻の映画がNPされたが、まあここまで言えばとっくに察しがついてるとは思うが、今年は、な、な、な、な、な、なんとこれだという!!!!!



残念だろうって?トンデモナイ。あんなモン陽の目をみなくて結構、もともとクダラナイよね、ポルノなんて

地震か火事でフィルムが燃えちゃえばいいと思ってたんですもの、(上映中止で)ちょうどよかった。奇跡ですね

だいたい十八歳未満おことわりの映画に十六歳の女の子を主演させるなんておかしな話ですよ。これじゃあ仮に上映されても私は観ることができない

狡猾な助監督に騙されて、まあ、人生のほんの冗談だと思って一本出たのが間違いで

などなど、1973年当時の山川レイカの言動は一貫していて、心底『マル秘昇天トルコ風呂』に出演したことを憎悪していることがうかがえる。
また、制作したからには元を取りたい東映はすでにこの時点から彼女が十八歳になる日を待ちかねていたらしいが(さすが東映!)、山川レイカにしてみれば1975年になってからの公開も不満だったようだ。
そして、そんな山川レイカの心情などは屁のカッパといった調子で、わざわざニュープリントまでして上映しようという2008年の某名画座、どんどん東映イズムを体現しはじめている。上映直前になってどっかからクレームなどつかないことを祈りたい。

にしても鬼畜といえば、山川レイカが言うところの”狡猾な助監督”こと澤井信一郎にはウケるが、その背景には「強烈な泡踊り、セックスシーンのために、主演女優が辞退につぐ辞退でまったく決まらな」かったという焦りもあったのだろう。ちなみに澤井信一郎も著書の中で山川レイカとの出会いに触れているが、騙して出演させたとか、そういうことはもちろん一言も書かれていない。



migime編集・キネ旬の『日本映画人名事典』には決して載らない山川レイカPROFILE


山川レイカ
本名:山川未知子
生年月日:1957年(昭32)2月18日
出生地:東京都自由が丘
サイズ:164cm・B85・W60・H89
[略歴]
会社経営者である父・明と母・直子の間に三姉妹の末っ子として生まれる(*3)。
母のいいつけで二歳半よりピアノのレッスンを始める。小学校に入ってからもそれは続き、中学二年のときにピアノを伸ばすため桐朋学園に転校。高校一年のとき、桐朋学園学生自治会を作る運動に参加、ビラや「自治宣言」なる文書を書く。代表委員長に選ばれるも、その翌日学校から退学処分を受ける。その後、東横美術学校や予備校などに通うが長続きせず、年齢を22歳と偽り、思想的なものは何もなかったが興味本位で(レーニントロツキーの著書などは読んでいたが)、京浜安保、中核、革マル、プロレタリア軍団など渡り歩くようになる。また磯子の石川島播磨の労働組合にも顔を出しはじめ、そこで運動をして警察に数回逮捕される。
1972年12月、芸能界みたいなところに目を向けさせればそっちへ行くだろうという作戦を立てた両親によって、山川レイカはGパンにゴム草履というフーテンスタイルのまま東映に連れて行かれ、東映にいた父親の友人に預けられる。
1973年、「山川貴子」名義(*4)で鈴木則文監督の『不良姐御伝 猪の鹿お蝶』(東映京都・2.17封切)にスリの親分・根岸明美の娘役でデビュー。続いて同年同名義で鈴木則文監督『恐怖女子高校 暴行リンチ教室』(東映京都・3.31封切)に衣麻遼子率いる”裏切り者はリンチで総括する”風紀委員の一人として出演。
1973年2月、姉の友人であった助監督の澤井信一郎を訪ねて東映東京撮影所に遊びに行ったのが運の尽きか、強烈な泡踊りやセックスシーンのため主演女優が次々辞退していた成人映画の主演を打診される。山川レイカは最初”イヤダ”と言ったが、”とっても困る”と言い出され、仕方なく腹をくくったという。それが1973年に主演した『マル秘昇天トルコ風呂』であり、山川レイカこのとき16歳(本人曰く、このとき本当にまだ処女)、東映は彼女を「最年少のポルノ女優」として売りだそうとしテレビなどでも取り上げられ話題になるが、”成人映画に16歳の未成年を出演させるのは良くない”という新聞の投書に端を発し、児童福祉法に触れるとかで問題になり、東映は山川レイカの映画を上映しないことに決めた。しかし、この映画はのちに彼女が18歳になった1975年に『青春トルコ日記 処女すべり』(監督:野田幸男)と改題されて、下番線で公開された。
あるころから酒に浸るようになり、例えば、一人で飲む癖があり、朝起きるとジンが二、三本並んでいることもあったという。アル中で初めて倒れたのは16歳で、腎臓と肝臓を壊し、入退院を繰り返す。アル中だと評判になり仕事を全部干されるようになる。
1974年、山川レイカ17歳のとき、原田芳雄曰く”独特のキャスティングをする”黒木和雄監督の『竜馬暗殺』にヒロインとして大抜擢され(「山川れいか」名義)、数日間撮影はされたものの、急な病気という理由で降板した。と、されているが、山川レイカの発言などを慮るに何か問題があった可能性もなきにしもあらずであろう。
また同年にはTBS系のテレビドラマ『時間ですよ・昭和元年』に出演するも、あるときプロデューサーの久世光彦に怒鳴られて辞める。
これ以後、映画、テレビの仕事はなく、どこぞの学校で語学の勉強に勤しみ、お小遣いが欲しくなったときだけ資生堂のPR誌「花椿」などでモデルのアルバイトをするようになる。
1976年には国費でパリ留学が決定し、本人はパリで演劇の勉強をやるつもりと意気込んでいる。
そして以後、山川レイカの消息・動向は不明。
最後にその性格は、「それにしてもポルノ映画って無意味ですね。わたし、監督さんに、この映画で訴えたいテーマはなんですかって聞いてやったわ」とか、「学生運動やってた経験はあるけど、田中真理が警察権力がどうのこうの絶叫しているのと同じに扱われたくない」などと言い放つように、その言動は刺々しく攻撃的で生意気、人からは”ハリネズミのようだ”と言われたことがある。嫌いな言葉は「平和と花と愛」。
また1975年に『週刊大衆』誌上にて、鈴木いづみ伊佐山ひろ子らと共に座談会を行った際には、山川レイカの右手にはしっかりタバコがはさまれていて、未成年者喫煙禁止法などどこ吹く風、昨今の喫煙問題で謹慎するようなアイドルなどとは一線を画し、まことに堂々としたものである。
竜馬暗殺』の制作ニュースを観るかぎり、なかなか雰囲気のある女優に見受けられただけに、16歳の若さで身を持ち崩したことが本当に惜しまれる。
ちなみに芸名のレイカは、イカレてるの”イカレ”をもじって彼女本人がつけた。



<山川レイカ・フィルモグラフィ>
・『不良姐御伝 猪の鹿お蝶』1973.2.17/山川貴子
・『恐怖女子高校 暴行リンチ教室』1973.3.31/山川貴子
・『マル秘昇天トルコ風呂』1973/山川レイカ/お蔵入り・75年改題して上映
・『海抜0米』1974.1/山川レイカ/テレビドラマ/グラビアを見た本島勲Pに出演交渉される
・『竜馬暗殺』1974.8.3/山川れいか/病気のため途中降板
・『時間ですよ 昭和元年』1974.10.16〜/山川レイカ/テレビドラマ/久世光彦に怒鳴られて辞める
・『青春トルコ日記 処女すべり』1975.4.19/山川レイカ



(*1) 実際は池玲子も『温泉みみず芸者』の撮影時には16歳だった。プロフィールの生年は天尾完次が捏造した。


(*2) 又聞きではあるが、ある東映マスターな方によると、80年3月の成人映画館「成増東映」以来、『青春トルコ日記』は28年間どこにも掛かってないそうなので、+18という単純計算で46。中には中高校生のときに劇場に潜り込んで観た人もいるでしょうが。


(*3) 「私が東北大、妻が共立女子大、上の二人が日本女子大…そういう私たちの家族の過去を振り返ってみて、つくづく後悔するのはマトモな学校を出、マトモな会社に入って、何のイミがあったかってことですよ。四人とも大学出てみると、大学の価値ってもんが逆にわかる。実にくだらない。私は、あの子(レイカ)にだけはそんなんじゃない実践的な人生を送らせようと思ってるんです。私があの子に望むのは、結婚なんかするな、何なら未婚の母たれ、ということです」(山川レイカの父の言葉)


(*4) 「山川貴子」を<日本映画データベース>と<goo映画>で検索してみたところ、そこに『不良姐御伝 猪の鹿お蝶』は記載されておらず、他にはあと一本『狂走セックス族』に出演してることになっている。
だがしかし『狂走セックス族』には「山川貴子」のクレジットはなく、またデータベースに書いてある”ガソリンスタンドのビキニガール”も彼女ではない。まあこの手のデータベースはプレスシートに依っているので、実際出演俳優が違うというのはよくある話。
大体にして『狂走セックス族』は1973年4月28日に公開された東映京都撮影所の映画だが、山川レイカに言わせれば、1973年の2月に姉の友人の東映助監督を訪ねて(澤井信一郎『映画の呼吸』の記述とばっちり符合する)、東映東京撮影所に遊びに行き、その次の日に『マル秘昇天トルコ風呂』の主演が急遽決まっているので、当然京都での『狂走セックス族』はキャンセル、出てる場合じゃなかったはずなのだ。



『不良姐御伝 猪の鹿お蝶』では、スリの親分・根岸明美の娘で名は”おはる”ちゃん。


岡八郎がスった財布の中に入っていたコンドームを、”西洋の風船か?”などとやってるみんなの横で、


”まったくみんな何も知らないのねぇ”
”バッカねぇ、避妊用具じゃない”


『恐怖女子高校 暴行リンチ教室』では、衣麻遼子率いる”裏切り者はリンチで総括する”風紀委員の一人。



余談ではあるが、ここのブログ(http://sn-cafe.seesaa.net/archives/200703-1.html)には、なんと『青春トルコ日記 処女すべり』主題歌のEPレコードが紹介されている。
なんでもここのブログによると、主題歌は「あれ」、挿入歌は「女に生まれて」というタイトルで、ご丁寧にも歌詞まで書き出してくれてるのだが、肝心の歌手の方は”不明”とある(どういうこっちゃ!)。
「女に生まれて」といえば奥村チヨの歌だが、ブログ掲載の歌詞と比べるに歌い出しの”♪女に生まれてよかった”までは一緒なものの、その後がもうまるっきり違う歌詞なわけで(”♪棒でつつけば栗が出る 指で探れば桜貝”、まんまな歌詞にアハハ!)、全曲名事典みたいのにあたってみても奥村チヨのはリストアップされてるが、トルコ風呂挿入歌の方はない。もちろん「あれ」なる歌も不明。ネットでこのレコードを検索しても全く手がかりナッシング!
ある識者の方にうかがったところ、ジャケ写を見る限りレコード会社のクレジット(ロゴ等)が見当たらず、インディーズレーベルの大手配給などが存在しない当時のレコード業界の状況を考えれば、プロモーション用のプレスではないかとのこと。なるほど言われてみれば確かに。
まあ全ては映画を観りゃ瞬く間に氷解するんだが、歌手が誰なのか気になるところ。もしも山川レイカだった場合にはプロフィールに追記しなきゃならんが、予感では荒木ミミかなぁ。