死ぬにはまだ早い?〜『死ぬにはまだ早い』

西村潔のデビュー作『死ぬにはまだ早い』1969は傑作だ。
新人監督の気負いが好きなのだが、これもギラギラしている。そのギラギラ効果は、もちろん主演の黒沢年男によるところも大きく、少しギラギラの質が違うのだが、例えば福田純『野獣都市』1970の黒沢など観てみればいい、屈折した青年の爆発を演じるとき黒沢はその魅力に光り輝くようだ。

『死ぬにはまだ早い』での黒沢は、浮気した彼女を撃ち殺し、その相手の男もぶち殺そうとしている青年である。西村の名前が「潔癖」の「潔」に思えたほど、西村は黒沢にそれを要求する、それに見事に応えた黒沢は”女はかくあるべし”という幻想を抱くことになるが、そんなものは裏切られてなんぼだということがわからない。そんな自分の妄想が作り出した女性像に適う女など現実には”絶対に存在しない”のだから、すると必然的に、その潔癖さゆえに、女を憎むことになる。愛した女であればあるほど絶対に許せない。”女などはみんな同じだ、女はみんな豚だ!”的なことを劇中何度も繰り返す。例えば新婚夫婦の嫁さんを犯すように、銃口をつきつけ他の男に命令する場面があるが、このときも”ほら見ろ女はみんな豚なんだよ!”とわめき散らし、あげくの果てはその嫁さんに覆い被さってる男を”俺はおめえみたいな奴が一番嫌いなんだよ!”とピストルで殴りに殴る。”自分で犯せと命令したくせになぁ、おいおい…”とはこのときの僕の内心。正直この映画での黒沢の様は同じ男として直視に耐えない。黒沢は純粋すぎたのだ。

”弱い犬ほどよくほえる”と言うが、この映画での黒沢はまるでピストルを持った子犬のようだ。対照的に黒沢に銃口を向けられつつも、”そりゃ怖いさ”と緑魔子に告白するも異様な落ち着きを払い続ける高橋幸治や、また黒沢にボコボコに殴られようがうめき声ひとつあげず、”もう殴り足りたか?”と言わんばかりの目つきで元の椅子に腰掛け、黙々とまたマッチ棒を積み上げていく草野大悟の無言の凄味。はっきり言って、こっちの二人の方がカッチョよく撮られていて、ますます黒沢が可哀相になった次第だ。そして、”いいかげんにしろ”とぼそりと口にした草野による衝撃のラスト。

『死ぬにはまだ早い』は息苦しい映画だ。それはピストルを持った男に監禁された密室劇特有のビリビリする緊張感からだけではない、そうじゃないのだ、潔癖、純粋、不器用、若さ、スクリーンから感じられるあの息苦しさは、ほとんど黒沢の生の息苦しさであった。そういう意味で、黒沢が”死ぬにはまだ早い”とは思えないような気がした。