migimeがヌーベルバーグだって?ハンバーグと間違えてんじゃねえの

9/7の日記

高円寺のオービスにディヴィディー(ヒゲ安流発音)を返しに行く。パラっと見て「若松孝二×足立正生 映画とテロルの時代」にそそられたのでレジに積んであった『映画時代 特集テロルの季節』(http://eiga-jidai.seesaa.net/)を購入。

ここ一週間東京は雨続き、全裸で原チャをぶっ飛ばせない禁断症状が出てたので(ウソ)、少し遠回りして吉祥寺・三鷹を×××km/hで突っ切る。途中メイさんの家の前を通り感慨に耽る。途中『デトロイト・メタル・シティ』6巻を購入。

雷をともなう豪雨。電車にて渋谷へ。電車の中でさきほど買ったDMCを読もうと思ったが開巻してすぐ「あっ 恋の味!」でブッと吹き出す。その後もニヤニヤがどうしても我慢できず、アブない人と間違われたくないので本を閉じて袋にしまう。どーでもいいが、「甘い恋人」PVの女の子を見ると何故だか年始のことを思い出して切ない気持ちなる。過去の恋愛の上に現在のそれをどんどん上書きしていくのが女で、過去の恋愛と現在のそれが並行しているのが男、という話を聞いて、そうかもと思う。センチメンタリズム。


思わず四階に上がりそうになるがユーロスペースエリック・ロメール緑の光線を観る。予備情報、予備知識、一切ナシ。というか駆け足の微妙な途中入場で終映後に聞いて初めてタイトルさえ知った次第。事前にタイトル聞いてたら怪奇SF映画なのかと思ってただろうが…。
過去の女を思い出しながら、主演のマリー・リヴィエールをぼんやり眺める。どうやら外国ではバカンスの予定がないことは罪に等しく屈辱的なことらしい。夏休み誰とも過ごす予定がない彼女は女友達からそのことを暗に叩かれてしまう。その舌戦はカットも割らずに次第にヒートアップしていき、それはヒステリック極まりなく。肉は食わない、野菜を食うみたいな食卓の会話も矢継ぎ早にとにかくしゃべるし、ふとタラちゃん的なものを感じたが、これ脚本通りなのか?と思ったら、その手の会話はどうやらリヴィエールのアドリブらしい。
それはともかく彼女は決してフェイスが悪いわけでも男にモテないわけでもなく、現に言い寄ってくる男もたくさんいるのだが、それら全てを”体目的”と断じ(屈折を感じる)、バカンスで男に声をかけられたり知り合うたびに(友人の家族と会うときでさえも)、自分の殻をますます強固にして閉じこもる。日記風に進行するこの映画、夏休みが終わりに近づいて行くにつれて彼女の人間不信はどんどん強くなり、彼女の潔癖は、盲信は、自分は他の人間と相容れないのだという孤独感と絶望感へとすり変わっていく。森に独り佇むシーンや海を見つめるシーンで彼女は孤独感からなのか突然涙を流す。森や海を見て思わず泣いてしまうような経験がない僕には彼女の心情を察することなど到底不可能。男性と付き合った経験はあるようだが私見では彼女は処女だ。とにかく体も心も風通しが悪い。森で吹いた風はちんこの暗喩かと穿ちたくなる。北方謙三ならば「ソープに行け(で働け)」の一言で、風穴を開けろと言うだろう(東映脳)。結局最後は彼女の絶望と孤独を救う男が現れ、幸福の象徴である日没する太陽が発する緑の光線を見るところでいままでの鬱屈は晴れて、我慢に我慢をさせられた分、彼女(と我々観客)はより大きなカタルシスを迎えることになるのだが、しかしそんな心の解放、希望を持たせるようなハッピーエンドよりも、男を信じられず男に絶望している彼女がつぶやく”わたしだって男に抱かれたい”という心情の吐露に人間の壮絶なるものを感じ(*1)、より深い感銘を覚えるのは決して僕だけではあるまい。この映画を観ていると、海とか、に限らなくても別にいいんだけど、どこか旅行に行きたくなるね。
(*1)余談だが下川耿史『死体の文化史』より抜粋、「昭和三年五月、神奈川県平塚の海岸で老婆が投身自殺した。その遺書には、「私は八十一の今まで男を知らない。といって、いまさらこの年じゃ誰も振り返ってくれない」とあった」。言語を絶する煩悶の果てに悟っちゃった感じ?

電車で明大前に移動。チーズタルトではなくマンゴーシフォンを食す、ブルトンが言うところの痙攣的なものと。