さようなら 幕末太陽傳 切られた首

「花に嵐のたとえもあるぞ さよならだけが人生だ」
于武陵の漢詩「勧酒」転結句の井伏鱒二による訳。川島雄三の口癖としても有名。この口癖は進行性筋萎縮症という難病にかかっていた(例えば呼吸筋の麻痺により死ぬことがある)川島の死生観となにか関係があったものなのか。川島雄三幕末太陽傳』は笑い死にするぐらい最高に面白い。しかし太陽の陽射しが強ければ強いほど影がその濃さを増すように、物語は進行するたびに死の影のごときものに覆われ始め、徐々に暗い様相を呈してくる。その陰と陽のコントラストが素晴らしく、あ、こりゃフランキー死ぬな、と思っていたら、おいらはまだまだ生きるんでえー!と、結局死神から走って逃げてしまった。生きてしまった。劇中のフランキーは自分の才覚と行動力だけで世渡りしていくタフガイで、その口癖は”人を信用するな”、そして石原裕次郎に斬られそうになった時は、”首だけになっても動いてみせる”と生きることに異常なまでの執着を見せる男でもあった。余談だが、先日、僕はこのフランキーに似ている人物を観た。岡本喜八『どぶ鼠作戦』での佐藤允だ。ただこちらはフランキーのように背後に死神は憑いておらず、心身ともに健康そのもの底抜けに明るい。しかし、才覚と行動力、生への執着、口癖などはそっくりで、佐藤允に言わせれば、”俺は信用しないことにしている。だからまだ生きている”のだそうだ。
「さようなら 太陽 切られた首」という文句は、松本俊夫薔薇の葬列』にも出てくるので有名かも知れないが、フランスの詩人ギヨーム・アポリネールの詩の一部である。ちなみにその詩のタイトルは「アルコール」、「さよならだけが人生だ」の詩タイトルは「勧酒」、これを訳した井伏鱒二アポリネールの18歳年下で、大学時代は仏文科に席を置いていた。まあそんなことはどうでもいいのだが、僕はアポリネールの「さようなら 太陽 切られた首」の文句が、何故か『幕末太陽傳』のフランキーと重なって仕方ないのである。寺山修司は「さよならだけが人生ならば人生なんかいりません」と詠んだが、まあ僕は『どぶ鼠作戦』の佐藤允のようではないので、夏木陽介のように死にたいと言う人間に御節介を焼いたりはしない、勝手にしてくださいと言いたい。
痙攣的なるものは言う、
うつつとも夢とも知らぬ一睡り 浮世の隙をあけぼのの空
ふん、俺はまだまだ生きてやる。