migimeはいつでも映画を観る意義を見失っている

『赤線玉の井 ぬけられます』の中で殿山泰司が伝授する股火鉢、門戸(まんこ)を暖めると男はすぐにイクのだそうだが、この技を駆使し一日で男を何人回転させられるか、その新記録樹立に執着する丘奈保美の姿には何か共感するものがあったりする。


その丘奈保美のごとく、ときに自分で自分にノルマを課してしまうことが僕にもよくある。しかもそのノルマは決まって無益で無意味で、楽しいというよりもただ苦しいだけのもので、他人にはどうしてそんな無駄なことを続けるのかと詰られることもある。まあ端から見れば意味わからんのは確かで、だって僕にもわからないのだから。


試みに僕の無益で無意味なノルマ史を振り返ってみると、まずは25歳のときに”俺はバカにならなければならない。バカになるにはどうすればいいか”と悩んだ末に、自分に課したノルマだった。しかしこれは人に言うのがものすごーく恥ずかしいことで、いちおう僕のパブリックイメージも考慮して(そんなのあるのか?)一部伏せ字で書くと、【一日一回は絶対●●●する】というのを実践していた。おそらく半年ぐらいはやっていたと思う。どんなに疲れているときでも意地と惰性と、それ以上にノルマということで毎日。ちなみにこれは意外にもまずは体力な面があって、いつでも走れる準備をしておかなければなりません。楽しいことなんて、楽しかったことなんて、ありゃしない。まあかなりのバカにはなれたという意味で当初の目的は達成したのかも知れませんが。


また前には【某SNSの日記を一年365日すべて埋める】という、これまた意味のわからないノルマを課していた。ひどく長く苦しかったこのノルマも、騙し騙しやって、いつもこのブログに書いてるようなほとんど日本映画の戯れ言を結局401日書き続けた。日記自体は無益で無意味でオナニッキだったが、しかしそれで多くの人と交流を持てたという意味ではとても有意義なものだったでしょう。


佐藤重臣が二週間で映画を100本観たと言っていたのとは、まあ関係あるようであまり関係がないのだが、【月に映画・ビデオを100本観る】というのもやっていた。というのも、月に80本、いや90本ぐらいまではわりと楽に観られるのだけど、たった10数本の差が、月に三桁観ることが、届きそうで届かなかった僕にとっての壁だったのだ。
そこで登場したのが僕の無益で無意味なノルマ癖。なんと月100本以上観ることをノルマ化してしまったのだ。しかし月100本というのは、楽しいどころかほとんど地獄で、そのとき付き合っていた彼女の誘いはもちろん、友達の誘いも全て断っていた。”今月ビデオ100本観なきゃいけないから無理”と、僕が誘いを断ったとき、電話口の彼女の声は明らかにひきつっていた。”ビデオなんかいつでも観られるじゃん”、”観なきゃいけないってなんだよ!(怒)”を執拗に繰り返していたが、それでも僕は”今月は無理だ”を繰り返して電話を切った。
そのかいもあって、このときはギリギリ100本に到達したのだが、まあこれだけが原因というわけではないけれど、そのときの彼女にはふられ、友達からも誘われなくなり、しかも観た映画も自分のキャパを超えたためか100本中98本はすっかり内容を忘れた。いや、内容がすべてごっちゃになり、わけがわからなくなった。これは無益で無意味の極みだと思った。そのとき失ったものに想いを馳せたとき、人生は映画を観るだけが全てではないことを悟ったのです、映画よりも彼女と一緒に過ごす時間の方が大事だったことを悟ったのです、やっとね。
とか言いつつ、やはり人間は忘れる動物のようで、僕は後にノルマを月150本に引き上げ映画・ビデオを見続けるという、またバカなことをやったのだった。ノルマを引き上げてからの最初の挑戦では109本までしか行かず、それでも何度かそんなバカなことを挑戦し続けた。あるときなどは「エスタロンモカ」という眠気と倦怠感を除去する薬を飲みながら一日5本観て、20日まではきっちりそのペースを守り”150本の壁も見えた!”と思ったのだが、最後の最後で心が折れて失速、結局そのときの月132本がいまだ破ることのできない自己ベストだ(体力気力の限界!地獄!)。そしてもちろん言うまでもなく映画の内容はすぐに忘れた、僕の脳力では覚えていられるはずもなかったのだ。


後年、どうせすぐに忘れてしまうなら、映画なんぞは観たとしても観てないのと一緒だ、と思うようになった。だったら初めから観なくても何の問題もない。僕はこのとき映画を観る意義を見失ってしまったのだ。
でもそのとき友人Nはこんなことを言っていた。”忘れても別にいいじゃないか。ただ観ればいい”と。観て、忘れて、観て、忘れて、観て、忘れて…を繰り返せと。それで十分じゃないかと。
友人Nは映画に全然興味がない人で、車が趣味で、何も考えずにぶらぶら運転してるときが一番の至福、気持ちいいんだそうだ。だから僕の趣味が映画なのならば、その観てる瞬間が至福、楽しければそれでいいんじゃん?って考え方のようだ。確かにそれはそうだと思った。


フランス映画に入門したての僕は先日ヴェーラでダンケルクを観たのだが、これがひどく面白くて参った。クロード・シャブロル『二重の鍵』で初めて顔と名前が一致した主演のジャン・ポール・ベルモンドがめちゃくちゃカッコよかった。
こないだある女の子に”migimeがヌーベルバーグとかめちゃくちゃ詳しくなってたらどうする?”と何気なく言ったら、似合わない的ニュアンス(?)の言葉を即答された。
しかし僕はまた無益で無意味なことをやりたい気持ちになっているのだ。



確か青山正明だったと思うが、”屍体に関する知識では当然その道のエキスパート法医学者が凄いのだが、しかし彼等の書くものは面白くない。一番欲しい人材は、知識はそこそこでも、とにかく面白いものを書ける人間だ”みたいなことをインタビューで答えていた記憶がある。
この青山正明の言葉も友人Nのそれ同様、失明したmigimeに一筋の光明を与えてくれたのだ。