『やくざ観音 情女仁義』を読むための「桜姫東文章」

スタジオ・ボイス』などという横文字の小洒落た雑誌がこの世にあること御存知か。僕はこの手のスカした雑誌は好かん(*1)。のだが、友人宅の映画本が集められたコーナーを物色していたら、この雑誌が紛れていて、”こんなもの”と小馬鹿にした気分で本棚から抜き出してみると、表紙は鈴木清順の『殺しの烙印』、なんだかなぁって気分になりつつもパラパラとページをめくっていると、田中陽造荒井晴彦の対談が載っており、正直ゆっくり読みたかったので友人宅より拝借してきた。そして早速読んだ、2000年5月号「特集 映画を作る方法2」



田中陽造といえば、僕が最も好きな脚本家のうちの一人であるが、その田中陽造がその対談の中でこんなことを言っていた。


−田中さんの作品は発想の仕方が普通の映画と違うんですよね。『やくざ観音 情女仁義』(神代辰巳・73)とか、どこから出て来るのかなと。
田中:あれは桜姫東文章なんですけどね。


『やくざ観音 情女仁義』(「いろじんぎ」と読む)といえば、以前ブックオフ大陸書房のやつが300円で売られていて、そのとき手持ちが300円もなくて、どうせこんなビデオ誰も買わんだろうと高を括って、後で買いに行ったらすでに抜かれていて死んでしまいたくなった思い出があるが、数年前にジェネオンからDVDがリリースされてとてもよかった。
まあそんな極私的なことはともかく、例えば荒井晴彦などは「神代辰巳田中陽造はうまくいかない最たる例」(*2)だと言うが、個人的には神代映画の中でも五本の指に入るだろうほど好きな異色の映画である。
それに加えて原作が、「四谷怪談」や『修羅』(「盟三五大切(かみかけてさんごたいせつ)」)など、これまた僕が好きな映画群に使われてることでも馴染みの深い四世鶴屋南北、いや、『やくざ観音 情女仁義』の原作が「桜姫東文章」とは言わないが、しかし田中陽造がこの狂言からなんかしらの着想を得てホンを書いたのならば、これはファンとしては一応読んでおかねばならぬ。ので、『名作歌舞伎全集第九巻』(1969/東京創元社)に収められた一編、四世鶴屋南北桜姫東文章読了。ちなみに「桜姫東文章」の初演は文化十四年=1817、河原崎座のために書き下ろされたものである。



まず、「桜姫東文章」の内容は知らなくとも、このおはなしの主要人物「清玄」、この名前を聞いてピンと来た人は鋭い。『やくざ観音 情女仁義』の主人公も「清玄」という。
どちらの清玄も「坊主」であるという共通点、そして一人のファム・ファタールの出現でトチ狂う、僧侶という身分を捨ててただただ破戒堕落の道を突き進む、その魔性の女に魅せられて。
南北の場合のファム・ファタールは、かつて心中しようとしたほどに愛した「稚児の生まれ変わり」、清玄、十七年のときを経て、その愛人に巡り合うという因縁。
田中陽造の場合はそれを「腹違いの妹」として書いた。兄妹、二十三年のときを経て邂逅し、お互い知らずに交わる近親相姦という因業。この事実を知り兄清玄は狂っていく。もうこの辺はほとんど地獄物語の様相を呈しているが、また反面その淫靡で甘美なことといったらない。


桜姫東文章」のヒロイン桜姫、物語のはじめの方は一般的な歌舞伎の赤姫のようにも見えたのだが、実はこの姫とんでもない淫婦だという南北の着想の妙。
釣鐘権助という男に夜這いされ破瓜されて以来、権助の肌を懐かしがり、権助と同じ「鐘に桜」の刺青を自らも彫り(そのときできた赤児は余所にやる)、物語後半になると、「風鈴お姫」との異名を持つ女郎に(ほとんど自ら進んでと言ってもいいが)成り下がる。そんな姫様がいるかよ?!と思わず突っ込みを入れたくなるほど。そして、さきほども言ったが、清玄を狂わせた魔性の女でもある。
『やくざ観音 情女仁義』のヒロイン美沙子もほとんど淫婦に近い。ロマンポルノだから当然といえば当然なのだが、この映画の主要なセックスシーンはそのほとんどが美沙子のもの。自分の家の若いヤクザ組員とやり(このときの描写は、とても生者のセックスに思えない。まるで冥界の、相手の男は亡者か鬼にでも抱かれてるようだった)、敵方の組長に薬漬けにされてやり、身を助けてもらったからと兄とも知らず清玄を挑発する。そして清玄が兄であると知って以来、彼女の魔性はますます際立つようなのである。


ここで一つ蛇足を加えると、『やくざ観音 情女仁義』では、近親相姦によって美沙子のさらなる魔性を引き出したのは清玄であり、またそうなった美沙子に翻弄され堕落したのも清玄である。
一方、「桜姫東文章」の方では、夜這いによる破瓜によって桜姫の淫婦性を目覚めさせたのは釣鐘権助であり、そんな桜姫に翻弄されたのは清玄である。この通り、こちらは映画の方と違ってヒロインと深く関わる男が二人いるのである。
田中陽造は「桜姫東文章」の清玄と権助をくっつけて一人清玄のみをホンに登場させたようだが、ここで面白いなと思うのは、「桜姫東文章」で清玄の幽霊が出てきて、権助の顔が半分清玄になるというところ、実はこの芝居の初演では七代目市川団十郎が清玄と権助を演じる一人二役であったという、脚本的なこともあっただろうが、田中陽造はこういうところまで踏まえて清玄・権助の二人を足したのじゃないかなと個人的には思ったり。


刺青について。
桜姫東文章」では、釣鐘権助の腕の「鐘に桜」の刺青、惚れてる権助の真似をして自分も同じ刺青を入れた桜姫。
『やくざ観音 情女仁義』では、もともと色気たっぷりの仏様に恋い焦がれていた清玄が背中に彫った観音様の刺青。この背中に彫った観音様はイコール美沙子のことではないのか。”おまえの仏は人を殺す仏だ”という、かつての清玄の師匠の言葉がふと思い出される。
しかし刺青については両者にあまり共通点はないように思われる。それよりもむしろ、僕はふと『おんな地獄唄 尺八弁天』の方を想起してしまった。脚本は田中陽造と同じく”具流八郎”のひとり大和屋竺
田中陽造のは刺青自体が恋慕の対象、「運命の人」としてのそれであったが、『おんな地獄唄 尺八弁天』で大和屋竺が書いた刺青は男と女を引き合わせる、男と女を結びつける「運命の印」であった。しかも、これには田中陽造が言うところの「映画的距離感」(*3)ってのがあるように思われ、背中に弁天と吉祥天を彫った男と女は、例えいる場所は遠く離れていても、その背中の刺青を介してお互い魂の交感をすることができるのである。そういう点では刺青の効果、使い方として、「桜姫東文章」のそれよりもさらに上を行くものであろう。
(余談だが、先日ヴェーラで見た『レイプ25時 暴姦』の刺青も絡めて想起したならば、この映画がより一層見えて面白いかも知れぬ)


桜姫東文章」で、桜姫が落ちぶれ「風鈴お姫」という女郎になり、”公卿の娘”というのを売りに人気女郎になったまではいいが、清玄の幽霊がその枕元に現れるので客が全く寄りつかない、というくだりを読みながら、
−吉原時代、おせんを抱いた客が三人続けて死んだことから、ついたあだ名が「死神おせん」、以来裏見世の百文女郎にまで成り下がったが、それでも客は”いくらいい女でも抱いて死んじゃあ元の子もない”と誰もおせんを買おうとしない−
という、やはり田中陽造が脚本の『マル秘女郎責め地獄』で中川梨絵が演じたところの女郎を思い浮かべた。
が、よくよく調べてみると、ここにも意外な共通点?死神おせんも「桜姫東文章」からの着想?と思われるような部分があった。
まず「桜姫東文章」の「風鈴お姫」には実際のモデルがいた。太田蜀山人『玉川砂利』に、品川の廓に公卿の娘と称する女郎がいたと紹介されているようである。その女郎は名を”おこと”といい、日野中納言の娘と称し、官女の姿で客をとったという。しかし、このおこと、実は公卿の娘というのは嘘で、女郎が十二単の官女に化けて敵方に乗り込んだという歌舞伎にヒントを得て、自分も官女に化けたという。そして、そのヒントとなった歌舞伎が「三日月おせん」というのである。
そして『やくざ観音 情女仁義』と『マル秘女郎責め地獄』、共に1973年の作品、製作期が集中していることも参考までに。
余談だが、中川梨絵のこの手の女郎ものでは、奇しくも『マル秘女郎責め地獄』のやはり同年に、大工原正泰の脚本で『マル秘女郎残酷色地獄』というのもある。なんだか似通っていて紛らわしいが、『マル秘女郎残酷色地獄』の中川梨絵は初め大奥女中であった。それが人の罪を着せられ女郎として吉原へ売り飛ばされてしまうという。女郎となって開き直った中川は自分を陥れた者に喧嘩上等、”将軍様が抱いた体だよぉ!”と啖呵を切りながら客に抱かれるのである。


親殺し、親の仇について。
桜姫東文章」では、桜姫にとって権助は「夫」であり、親を殺した「仇」。桜姫は最後その仇を討ち、自分の愛する子供であるが、仇である権助の血もひいていることから、イコール我が子も仇、という論法で我が子も殺す。
『やくざ観音 情女仁義』ではそれより少し複雑に、まず前述した通り清玄は「桜姫東文章」での清玄と権助二人の役割を兼ねた人物であるということ、それを踏まえて、美沙子にとって清玄は「兄」であり、「夫」であり、「親の仇」である。清玄は美沙子の父親を殺すが、それはすなわち自分の父親でもあるという親殺し。なるほど田中脚本の方がより業が深い。
その因業に対する救済の意味合いがあるのかないのかは知らないが、「桜姫東文章」の論法に従えば、美沙子は自分の子でもあるが、親の仇清玄の子でもある我が子を殺さなければならない。が、『やくざ観音 情女仁義』ではそういうことはいっかななかったようである。実際産んだのか夢幻なのかは判然としないが、映画中、美沙子が自分の子であろう赤ちゃんを抱いて可愛がっているショットは何度か挿まれたと記憶する。


桜姫東文章」の黄泉がえりとか幽霊について。
『やくざ観音 情女仁義』では冒頭からこれである。「死に腹の清玄」と呼ばれる清玄は、死んだ母胎の中から坊主の手によって取り出された。坊主がいらんことをしなければ、清玄はあのまま死んでいた。この場合、胎内はほとんど冥界に近く、石井輝男の『地獄』を持ち出すまでもなく、女性器は冥界に地獄に通ずる門扉である。しかし生まれてきたこの世も生き地獄という。
と言っても、これらについては別段「桜姫東文章」ということではなく、「冥界」や「生と死のはざま」といったものは、田中陽造作品全体の一貫したテーマであるので、特にこれからと限定するものではないだろう。
ただ南北の「人間が落雷によって蘇生」というのは面白い。フランケンシュタインの怪物なんかもこのヴァリエントでしょうか。この逆としてサドやシブサワの小説なども想起されそうだ。



(*1)と言いつつ、『スタジオ・ボイス 特集ミステリアス・フリーク江戸川乱歩』(1986.12.流行通信)だけは買った。エッセイスト丸尾末広の面目躍如であろう素晴らしい「雲の上を真夜中が歩く」を読むためだけに。

(*2)「神代辰巳田中陽造はうまくいかない最たる例という。田中さんのホンって世界が出来ちゃってるから、武田一成さんみたいに変にいじらずにまんま撮る方が結果はオッケーなんですよ。田中さんのホンはちょっといじると全然違うモノになっちゃう」−荒井晴彦

(*3)「この間も、女子大生が刺し殺されて、殺しを依頼した犯人は自殺しちゃったよね。要するに、別々なところで二人が死ぬわけだよ。映画的距離感のあるいい話しで」−田中陽造

※(*2)(*3)とも『スタジオ・ボイス』誌2000年5月号の対談より。
※(*2)の事件はたぶん1999年の桶川女子大生ストーカー殺人事件のこと。