<ソイ・ミギ(わたしはミギメよ)>〜『ミツバチのささやき』

昨晩、渋谷のユーロスペースビクトル・エリセミツバチのささやき1973を観て以来、アナ・トレント(7歳ぐらい)のことが脳裏からはなれず、彼女はすでに精霊のようなものであり、<ソイ・ミギ>と唱えればいつでも彼女と交信できると信じる、ほど僕はもう子供ではなくなってしまったが、その呪文を唱えながらgoogleANA TORRENTの画像検索ばかりしている。


僕も小学校にあがるかあがらぬ頃に幽霊を見たことがある。雨が降った後などは決まってヤスデダンゴができるような和泉多摩川のボロアパートに住んでいたとき、両親の間にはさまれて川の字で寝ていたが、ふと夜中に目が覚めて、上半身だけ起こしベランダのガラス戸の方を見遣ると、長い黒髪で白いシーツのようなものをまとった、まんま幽霊然とした女が立っていたのだ。季節ははっきりと覚えていないが、ガラス戸にレースのカーテンのみかかっていたところから夏だったのかも知れぬ、仄かな外光を背にして、顔は髪の毛に隠れてわからなかったがその女がこちらを凝視しているのはわかった。それからどうなったのか全く覚えていない。それが現実だったのか、ただの夢、または幻視の類だったのかも今となっては判然としないが、そういう記憶だけは今でもありありと思い出せるのである。


つまるところミツバチのささやきとはそんなような映画なのではないだろうか。巡回上映でボリス・カーロフの『フランケンシュタイン』を観たアナは、映画の最中も姉イザベルに子供特有のどうして?なんで?攻撃をする。それはベッドにまで及び、なんで仲良く遊んでいたのに怪物は少女を殺し、怪物は殺されてしまったのかと、まばたきもせず(素晴らしい)、姉を直視しながら聞こうとする。眠くて仕方ない姉は、少女と怪物は死んでいない、映画の中の出来事だからとめんどくさいように答える(アナとは対照的に姉は「虚構」と「現実」の分別がついている)。さらに怪物は精霊であり、<ソイ・アナ>と呼びかければいつでも出てくる、村のはずれの廃屋に夜に行けばいると。そんな姉の言葉を信じたアナは昼間ばかりでなく、夜にだって寝室を抜け出して廃屋に行くようになる。ある日、姉のまるで怪物に殺されたかのように見せかけた死に真似にショックを受けたアナは、姉にさえ心を閉ざし何も喋らなくなる。焚き火を飛び越える年長の子供達を尻目に、じっとその様子をうかがうアナ。例えば精神的肉体的苦痛を伴う通過儀礼を経て大人と認められる場合があるが、焚き火越えは子供達の一種のイニシエーションであり、両親は言わずもがな、親しかった姉さえも「子供」を飛び越え、アナとは違う領域に行ってしまったのだ。ここで決定的にアナの唯一の心の拠り所は<ソイ・アナ>の呪文によって召喚されるフランケンシュタインの怪物(精霊)だけになってしまった。そこで映画的奇跡と言おうか、精霊は廃屋に具現化した姿を現す、足を負傷した脱走兵だ。まるで『フランケンシュタイン』の怪物と少女の関係の二人。リンゴを始め、甲斐甲斐しく脱走兵の世話を焼くアナ、アナに手品を見せて喜ばす脱走兵、心を通わして行く二人(なんだか書いてて泣きそうになる…)。しかし脱走兵は軍の兵士により始末され、アナは脱走兵の死を、脱走兵にあげたはずの懐中時計を父が持っていたこと、そしてその廃屋に残された脱走兵の血によって知る(脱走兵の死体は『フランケンシュタイン』が上映された会場に手術台然としたベッドに横たえられるのだ!)。その廃屋で父に会ったことから、精霊を父が殺したかのように思い込み、父の制止も聞かず、荒野にひとり走り去るアナ。夜になり、真っ暗い森の中を彷徨うアナ、キノコを手に取りそうになるショットなどは、あまり伏線になってない父の毒キノコ講義が思い出されドキドキしたり、池のほとりで水面を覗き込む行為さえそわそわした。するとそこに突如現れるフランケンシュタインの怪物、その顔は何故か父の顔である。こういうのは精神分析学的にいろいろな解釈の余地がある。これまでもたびたび挿まれていた『フランケンシュタイン』の映像だが、確かこの映画では怪物は少女を水の中に落としてしまったと思うが、『ミツバチのささやき』ではその場面は挿まれていない。が、もしや父の顔した怪物がアナを池に落としてしまうんじゃないかとまたもやドキドキしたが、次の瞬間、僕が幼少の頃に幽霊を見たときと同様、気がつくとアナは周りに池などなさそうな場所で目を見開いたまま横たわっていた。保護されてからも誰とも口をきこうとしないアナ。食べ物も受け付けず衰弱しているという医師と母のやりとり。しかしそんな心配する大人達をよそにアナは夜中にむくりと起き出し、水を口に含んだかと思うと窓辺に近寄り、自分が唯一心を通わせられる相手を呼び出すために<ソイ・アナ(私はアナよ)>と呪文を唱えるのだ。−FIN


アナが可愛いとか、風景がきれいとか、映像詩がどうとかこうとか、僕らは大人だから悠長に素っ頓狂なことを言ってられるが、子供が(仮に寝ないで)全編観たならば間違いなくトラウマ(死生観)を植え付けられそうだ。それが子供らに対する善意からだか悪意からだかは知らないが、第二のアナを作り出そうというたくらみが垣間見られ、フランケンシュタイン』を観て感化されるアナ→そんな『ミツバチのささやき』を観て感化される現在の子供達という逆流する入れ子構造を形成する怖ろしいような映画。


アナの子供視点による物語が主であるが、サイドストーリー(?)のように大人側の視点で父や母のエピソードも挿まれる。
例えば、ガラスの巣箱のミツバチの研究に没頭している偏屈な父。実は彼らの家の窓枠自体がまるでミツバチの巣のような形をしていて、ガラス巣箱のミツバチは彼ら家族の何らかの暗喩なのだろう。原題の『El Espiritu De La Colmena』は「蜜蜂箱の精霊」という意味らしいが、フランケンシュタインの怪物(精霊)が父の顔だったところからも、父がこの映画のキーポイントなんだろうなとは思うがその辺についてはよくわからず。
母は手紙狂(?)で昔は父に、今はどっかの兵隊に手紙を書いている。それを自転車で汽車のポストまで入れに行くワンカット撮りがひどく素晴らしい。
テクニックといえるのかどうかは知らないが、廃屋をとらえた画面は動かず、アナの服装とカバンの有無だけで時間の経過を表すショットも印象的。
あとあまり大きすぎずにユーロぐらいのスクリーンサイズがちょうどいいのだが、荒涼としたスペインの風景や街並み、機関車の轟くような走りは、やはりスクリーンで観るに限る。この感動はテレビの画面では味わえない。
どこまでも伸びる線路のショットには思わず『マル秘ハネムーン 暴行列車』1977の開巻とラストを、八城夏子を想起してしまった。
もう一度ユーロで観ようかしらん。2/6までレイト上映。
memoまで。