おとう、涅槃で待て〜『歓びの喘ぎ 処女を襲う』

みややと言っても嵐の二宮某のことではなく宮谷一彦のことだが、ちょっと前に某所でパクリ疑惑(?)について話されていたので、まあ漫画と映画を比較することで何か制作意図めいたものでも感じられないかしらんという烏滸がましい思いもあり試しに読んでみると、単にスジが類似している程度かと思ったら、そのレベルではなく、人物設定もそうだし、父が死んだと電報が来て、その紙を貼って妊娠した女を残して田舎に逃げ帰るところからは、男が言う「おとう、あんたも魚を食ったな」という最後の台詞まで総てが同じで吃驚してしまった(松本零士なら確実に裁判おこす)。高橋伴明『歓びの喘ぎ 処女を襲う』1981は誰が見ても間違いようがない宮谷一彦『性蝕記』1971のパクリであった(故にミヤヤフリークは必見の映画)。

このような原作者を明記しないいただきと言えば、寺山修司草迷宮』の出演者でもあった紀ノ山涼子が脚本の『女子大生の告白 赤い誘惑者』が寺山修司『わが故郷』からの拝借を含んでいたり、足立正生の『堕胎』が澁澤龍彦の翻案だったことなども思い出される。

閑話休題。ともかく『性蝕記』と『歓びの喘ぎ 処女を襲う』は、スジは全く同じだが漫画と映画ではやはりその作風が異なる。漫画では主人公の男の心象はおどろおどろしく幻想的な描写で具現化するが、このへんはほとんど映像化不可能なので、元よりそんなところで勝負する気もない高橋伴明はばっさり、そういうのは無しで男の心象描写に迫ろうとしているようだ。

革命の夢に破れた男(下元史朗)は漫然と「出口」を求める。ときに頭に受けた革命の傷跡に苛まれながら(そのときの高層ビル街でのカメラワークがカッコいい)、思想を変えようにもそれは決定的突破口にはならず、「出口」を女に求めるも女が妊娠したことでそれは塞がれ(そんなものはもとより幻想だ)、父親の死を口実に今度は田舎に逃げ帰ることでそれを求めれば、そこには工場の排水によって汚染された魚を食ったことで白痴になった妹がいて、しかも色キチガイになっていて実の兄である自分の体を求めてくる。妹をいっそ殺してやろうと思うがそれもできず、かわいそうな妹を抱いてやる。ふつう文学に現れるような近親相姦は決まって破滅の裏側に甘美なものが潜んでいるものだが、この物語においては否、安直に言えばそれは男にとって地獄であり(精神的にも肉体的にも疲弊しきった感。だが葬式帰りの兄と妹の自転車二人乗りのシーンが美しい)、これから抜け出すには、自分にとっての「出口」とはもはや狂うしかない、死ぬしかない、と、漫画ではそれに気付いた男が「おとう、あんたも魚を食ったな」と言いながら一人でモーターボートに乗り沖へ出る、「出口」へ向かってまっしぐらというような(それはまるで再び革命の渦中へ飛び込もうとするような一種の激情を感じさせる)カットで終わっているが、映画ではそれと反対に、大漁旗で装飾された部屋(?)で卓袱台をはさんだ兄と妹が、薄暗い裸電球の下で向かい合って、黙々と、うつむきながら、魚を食べているカットになっていて、それがただただ静かであり、その佇まいはすでに涅槃の境地にいたっており、二人は真の「出口」に達したように見える。このまま彼らは、静かに、安らかに、人知れず消滅していくだろう。理論ではなく感性がこのラストシーンの素晴らしさを、そう我々に訴えかけるのだ。