ブラームスいまだ鳴りやまず〜『レイプ25時/暴姦』音楽演出考

前にA女史がルイズ・ブルックスが踊るシーンに付いた音楽に辟易し、音を消して観たらとても良いと言っていたのをふと思い出した。確かにそれは無音の方が素晴らしく、素っ頓狂な音楽が映像の邪魔をするというのはあると思う。
またこの逆も然りというのもあるだろう。映像が音楽の邪魔をするというような。例えば淀川長治などは、蔵原惟繕『陽は沈み陽は昇る』について、そのタイトルバックに流れるニーノ・ロータの音楽と撮影の美しさに見とれ聞き惚れたと言っていたが、踊るが如く大きな文字でタイトルが飛び出した瞬間、美がすべて叩き潰されたとえらい剣幕で憤慨していた。
と、映像が音楽を殺すという話はとりあえず置いといて、音楽は映像を殺すのか生かすのかという話に戻ると、高田純さんのブログ「牡丹亭“と庵”備忘録」に詳しいが、神代辰巳『恋文』に関するエピソードが実に興味深い。
高田氏曰く、『恋文』は音楽が付いていなかった「オールラッシュのときが最も感動的」で、音楽担当の井上堯之は余計な音楽をつける必要はないこと主張したらしいが、監督神代辰巳の”ヒットさせたい”という意向でいっぱい音楽がつけられ、そしてそのせいもあるのだろうか現にこの映画はヒットしたのだという。
確かに音楽というのは映像以上に観客の感情に大きな作用を及ぼす場合があり、音楽によって思わず鳥肌が立ったり、感極まるというようなことは多々あるが、しかしだからと言ってやたらめったら音楽を付ければ(バカみたいに大きなボリュームにすれば)いいというものでもあるまい。
すると今度は映像と音楽の調和(「マッチ」「マッチのようでいてミスマッチ」「ミスマッチのようでいてマッチ」「ミスマッチ」)だとか、ボリュームの強弱だとか、音楽演出の話になり、例えば淀川長治は『映画批評論』の中で、
ヴィスコンティの『ベニスに死す』で、作曲家が美少年タジオを発見したときは<メリー・ウイドウ>のヴィーイリアの愛の曲がゆるやかに、やがて高らかに流れてきた。これがのちのタジオのピアノのざれ弾きの<エリーゼのために>をアッシェンバッハが聞くときには売春婦の回想が加えられていた。二つのメロディがこの作曲家の美の発見から美の現実的な耽溺へと移ることを示してその演出は巧みであった」
と語っていたが、このように音楽演出の効用についてまで考えを巡らさなければならなくなってくる。



果たして、これほどまでにベートーヴェンの楽曲が効果的に活かされた映画はあっただろうか。
登場人物の心象風景から場面描写に至るまで、全編にわたって、その映像と音楽との融合は見事と言う他ない。
冒頭、ストーリーの契機となる悲劇的な「運命」のダダダダーンはあまりにもベタで半ば失笑気味だが、いやいや、観進めていくうちにこれはなかなか生半可なものではないぞと思わされる。監督のベートーヴェンへの造詣の深さには脱帽するばかりである。
さて主人公の心象は沈痛なピアノソナタを経て第九、歓喜の歌へと昇華する。悲劇が歓喜に変わるのだ。
女のこの手の変貌ぶりを描いた映画や文芸はいくつも存在するが、歓喜の歌の強奏とともに導かれる終幕では、思わずブラボーと快哉をあげずにはいられないのである。


上記は、監督である長谷部安春ベートーヴェンへの造詣の深さを喝破し、それをまことに端的かつ的確に記した瑠山智満氏による『襲う!!』評*1であるが、これにある通り『襲う!!』は長谷部安春の音楽演出がもっとも成功した一つの例であろう(特に女の悦びに開眼した小川亜佐美と「歓喜の歌の強奏」の重ねが素晴らしい!)。
”一つの例”と書いたのは、音楽演出に冴えを見せた長谷部ロマポは実はまだ他にもあるわけで、例えば『襲う!!』における「運命」、『マル秘ハネムーン 暴行列車』におけるピンクレディーの「S・O・S」と「ウォンテッド(指名手配)」といったような状況的にベタベタな、タモリ倶楽部的な選曲センスばかりがなにも長谷部安春の持ち味ではない*2
ようするに何を言おうとしてるのかというと、『レイプ25時/暴姦』におけるブラームスを用いた音楽演出、ミスマッチのようでいてマッチな音楽と映像のハーモニーの美しさについてなのである。


ドイツ音楽における「三大B」といえば、バッハ、ベートーヴェンブラームスのことを指すらしいが、このうちの二人を長谷部安春は『レイプ25時/暴姦』(1977年)と『襲う!!』(1978年)の音楽でそれぞれ用いている。特に後者にいたっては堂々と「音楽:ルートヴィッヒ・ヴァン・ベートーヴェン」とまでクレジットされていてまったく恐れ入るが*3、しかしたとえノークレジットであったとしても『レイプ25時/暴姦』におけるブラームスの重要性は、『襲う!!』のそれと同等、いやむしろそれ以上と言えるほどであるかも知れない。


ベートーヴェンを使った『襲う!!』ではヒロイン小川亜佐美の状況下・心象下によって、例えばレイプ魔との突然の邂逅では交響曲第5番「運命」、初めて犯されたときはピアノソナタ第8番「悲愴」、女体の悦びに開眼したときは交響曲第9番歓喜の歌」といったように非常にマッチな標題が付いた曲が重ねられ、ある意味ベタな選曲であったとも言えるが、この前年の『レイプ25時/暴姦』の(標題といったものは特にない)ブラームス交響曲第3番第3楽章の使い方はもっと先鋭的で、ミスマッチで、衝撃だった。
ブラームス交響曲第3番は、ブラームスが50歳のときに作曲され、そのときブラームスが入れあげていた26歳のアルト歌手ヘルミーネ・シュピースへの切ない恋愛感情が反映されたものと言われている。特にそれを裏付けるかのような第3楽章の想い人に対する恋情と憧憬、叶わぬ想い故の切なさや憂い、また逆に恋をする者特有の恍惚感といったものが綯い交ぜとなったメロディの美しさといったらないが、この曲を長谷部安春はなんとレイプシーンに使ったのである。しかも恋い焦がれた末のレイプなどではなく、そこにその女がいたから犯したというようなゆきずりの、女をばちばちと殴る激しいレイプシーンで。


”ゆきずりのレイプ”というと少し語弊があるので、これから『レイプ25時/暴姦』の内容についても説明していかなければならないが、まずは石山雄大が演じるところの強姦強盗を生業にしている赤ジャンパーの男である。
仮に天動説の男とでも言おうか、物語はこの謎の男を中心に、他の登場人物たちがそれを取り巻く形で構成されている。というのは、この男の求心力たるや半端ではなく、男と接触した者は決まって男の何かに魅入られてしまう。
その最たる一つの例がアナーキーで超暴力的なホモ三人組(村上直史、高橋明、田畑善彦)で、彼らは男のお釜を掘る(またお釜を掘られたい)いう即物的な肉の欲望、ただそれのみを動機として男を執拗に追い回す、その犯るか犯られるか命がけのバイオレンスな追いかけっこが物語の主軸ではあるのだが、しかしそれは今回のブラームスの話とは関係ない。
つまり、ブラームス交響曲第3番第3楽章(以下「ブラームス」とする)が流れるのは決まってバレリーナ山科ゆりを”犯すとき”に限られるわけで、冒頭ガソリンスタンドからホモ三人組の追跡に遭い、それをやり過ごしたのが偶々山科ゆりの家の陰であり、そこで見上げた二階の部屋に人影を発見したとき、いままで追い掛けられていた男は今度は平然と塀を乗り越え、女を犯すために部屋に侵入する。そのとき山科ゆりの部屋にかかっていたレコードがブラームスなのである。


この劇中で二度流れるブラームスの最初のケース、突然の侵入者に部屋の中を物を投げつけながら逃げまどう女、しかし男はそれを捕まえ女の口を押さえて引きずりながらオーディオの側に行き、ボリュームのつまみをひねる。
このなんでもないような演出にまず瞠目する。それまで憂愁の美を湛えながら流れていたブラームスはそこで突如けたたましく熾烈な凶暴性を帯びる。いやもっと言えば、レイプシーンにブラームスを重ねるという一見ミスマッチなこの使用方法は、「攻撃性を含まぬ愛はない」というインプリンティング(刷り込み)を発見したオーストリアの動物行動学者の言葉を思い出してもいいが、(後になってわかるが)つまり女に対して愛の刷り込みがなされたという暗示になっているし、また男もそれと同様になったことを表している。
ここで凶暴性を帯びたブラームスが鳴り響く中、男は女を顔面から血が出るほど殴りながら(また血をぬぐってやりながら)犯すが、そのとき男の腕に彫られた薔薇の刺青が徐々に赤く色づき始めることに注目しなければならない。
この男の刺青(仕掛け彫り)は”いい女に反応するアンテナ”のようなもので、例えば男は他にも女(桂たまき、丘奈保美、岡本麗)をレイプするが、彼女らに対しては腕の刺青は色づく気配さえちっとも見せず(レイプシーンのたびに腕の刺青のカットがこれ見よがしに挿入される)、薔薇は白い(肌の色の)ままなのである。
俗に意志に反して潤うヴァギナを指して”体は正直だ”などと下世話に言う場合があるが、不随意的という意味でそれと同様に、いやそれ以上に男の腕の刺青(体)は正直であると言え、このとき男は犯しながらもすでに無意識下で女を愛していたのである。それは後に女から盗んだペンダントを青年が持っていたことをトリガーとして女を思い出し、”あれはいい女だった”と言わしめたように男の中で完全に意識化する。


またブラームスはオルガスムスの暗喩としても機能する。
男は女を犯し絶頂に達した後、男を追って部屋に入ってきた青年(塚田末人)にも女を犯すようにうながす。うながされるままに青年は女に覆い被さる、するとじきにブラームスは鳴りやみ、そこにはただがむしゃらに腰を動かす青年が映し出されるが、それも虚しく青年のペニスは萎えたままでうまくセックスができない。
ブラームスが鳴りやんだことからも無意識的な愛の契約は強姦魔とバレリーナの間でのみおこなわれ、青年は射精もできずに一人蚊帳の外であることが示されるが、しかしこの体験で青年の憧憬は複雑な形をもって次第に大きくなって行くのである。


自分を絶対的な暴力の世界にいざなう謎の男の生き方に戸惑いと反発を覚えながらも、青年はその男に惹かれていく憧れの気持ちをどうすることもできない。
それはうながされるままに初めてやった強姦体験(未遂)の後、一人で雑木林の中でセックスしているカップルを襲って強姦したり、謎の男の薔薇の刺青を真似てボールペンで自分の腕にそれらしきものを描こうとしたりするところにも表れている。
また一方で、ペニスが萎えて挿入できたかさえ疑わしい初めてのレイプの相手にも一種の憧憬を湛えた恋情を抱くのである。それはバレリーナの家で盗んだペンダントを大事に持っていることからも、彼女の家の前に車を停め、彼女が出掛ければそれをこっそりと追い掛けるところからもわかる。


そこで青年が女をつけた先で目撃したのは、強姦魔と女の邂逅であった。
女は金を用意してきており、自分にもう関わらないで貰いたい旨を告げながら、それを男に渡そうとする。しかし男はそれを受け取ろうとせず、”好きなんだ”と言って女の股間に手を運ぶ、いちおう抵抗のポーズを見せながらも、男の魅力に抗えず股間を濡らし感じてしまう女。
(次の瞬間、いままで女をつけていたはずの青年が職場でイラつきながら車を磨いてるカットを挿むことで、女と強姦魔の親密ぶりと、時間の経過を一瞬で表す)
即座に場面転換し、ホテルか何かの一室、キスをする強姦魔と女のショット。唇を離した途端、女は男にビンタを何度もかますが(女のアンビヴァレントな感情の表象)、男はそれを余裕綽々といった顔で全て受け止め、再度キスからベッドになだれ込む*4。やはりこのとき男の薔薇の刺青は赤く色づくが、和姦の関係になってしまった二人の上にはもはやブラームスは鳴り響かない。


そして、謎の男はホモ三人組との死闘に敗れて死ぬ。
男の仇を討ち、憧れだった男の死亡をわざわざ確認したあと、青年は女の家に向かい、その部屋に侵入する。ここで二度目の憂愁と憧憬を帯びたブラームスの恋の曲が鳴るのだが、いままでの伏線や含みがここでようやく結実する。
つまり青年にとってバレリーナの女は密かに恋い焦がれていた憧憬の対象であり、初めての接触での失敗、謎の男とデキてしまったことも相俟って、絶対に手の届かないような女だった。
それが男の死によって事情が一変し、女を犯すことができ、青年の想いはめでたく報われた、と、事はそう単純に運ばないのがこの映画の安直に言うと奇蹟で、まず青年が女に襲いかかる前に、”あいつは死んだよ、だから俺が”と言った台詞に着目しなければならない。
もう一方の憧憬の対象である強姦魔と自分を同一視する、青年の一体化への願望は一種の精神的ホモイズムであろうが、すると青年は青年であって青年でないと言える。強姦魔の強烈な幻影からいまだ逃れられていない青年はあくまで強姦魔の身代わりに過ぎず、女からして見れば強姦魔が憑依した幽霊みたいなものであろう。
それが証拠に、この奇妙な三角関係の歪みを表象するかのように、青年と女のセックス(レイプ)は「割れた鏡の内側」(それは異界である)で羽毛が舞い散るなか幽玄的な雰囲気をもっておこなわれる。愛ゆえの破壊衝動に準じ白鳥(=バレリーナ)の羽を散らしてるはずなのに、恋い焦がれていた女を抱いているはずなのに、この血の通っていないようなセックスシーンはなんなのだろう。
もしもキスやセックスをすれば、それで自分の想いが報われたと思える人がいたならば、その人は幸せだ。レイプに成功してもやはり青年の想いは報われないし、その青年の心情が、ブラームスの哀切な旋律をもってよく表象され、またその音楽と映像のミスマッチのようでいてマッチな調和が、実に物悲しく、奇蹟のように美しい。
決して報われない熾烈な恋情を描いた映画という意味では、『レイプ25時/暴姦』は、例えば(ブラームスと同じく恋愛事情によって作曲された)マーラー交響曲第5番第4楽章を用いた『ベニスに死す』のラストシーン(この音楽の使われ方は「マッチ」以外の何物でもないが)に匹敵する美しさであると言っても過言ではあるまい。
そして、消え入るように終曲するブラームス(とエンドマークの出方およびS.E.)は、同時に青年の消え入るようなオルガスムスを暗示させ、最後の最後まで完璧である。


*1:蛇足ではあるがmigimeによる『襲う!!』評(http://d.hatena.ne.jp/migime/20070904

*2:3月29日にグリソムギャングでおこなわれた長谷部安春トークショーで、監督本人が「音楽はわりとベタに使う」と言っていて、ちゃんと自覚があったのだなぁと密かに思った。長年誰かの変名ではないかと疑念を抱いていた『エロチックな関係』の音楽「A・イカルト・ルティアーニ」や、『暴る!』の「ジャノ・モラレス」の謎も解けた。この『エロチックな関係』上映会については後日詳述。

*3:藤田敏八『エロスの誘惑』(1972年)では「音楽:J・S・バッハ」とこれまた堂々とクレジットされていることも指摘しておく。

*4:女にバチバチとビンタをかまされるが、その後キスしてセックスへと流れるシーンは、すでに『みな殺しの拳銃』(1967年)の中にも現れるハセベイズム。ちなみに『みな殺しの拳銃』は長谷部安春の監督第三作目、ハードボイルドの極北と言ってもいい映画で、双葉十三郎などは「日本映画監督50人」(『キネマ旬報』2002年6月下旬号)の中に長谷部安春を選び、この映画を面白いと言っている。友情と愛情と義理のあいだで揺れ動く男二人、宍戸錠(黒田)と二谷英明(白坂)の物語。ここに沢たまきという「女」を加え、またしても奇妙な三角関係をも描く。二谷は女房であるたまきに、錠との戦いで自分が死んだら錠を頼れと言うシーンなんぞ鳥肌。奇妙な三角関係といえば後の『レイプ25時/暴姦』(雄大、塚田、山科)をも想起するが、例えばダンベルで高品格の手をガンガン潰すのは高橋明(メイさん)のトンカチを、藤竜也が女にバチバチとビンタをかまされてからセックスの流れは雄大と山科のそれを思い出す。長谷部映画といえばジャズ。ケン・サンダースの歌うメロディが何故か『荒野のダッチワイフ』の鼻歌に聞こえる。揺れるライトで陰影を変化させたり、スペードのジャックの暗喩、奥行きのある構図の多用、ラストの宍戸と二谷の、コインの表と裏のような二人の対比、銃撃戦、凄いの一言。壁を背にした藤が銃撃されるシーン、棺桶ダイナマイトもあった。たまきの店の客でメイさんチョイ役。大傑作!