爆音映画祭2009〜人のセックスを笑うな!!!!

「エロティシズムとは死にまで至る生の称揚である」という仏蘭西の思想家であり糞便の神の使い古されたフレーズがすぐさま思い出され、思わず西村潔のベストと断言してしまいたくなるそんな誘惑に駆られる映画だ。


開巻してすぐ、トヨタ2000GTのエンジンに火を入れたときのブォォォンンン…という重低音とそれに伴う振動、たったこれだけのことなのだが、ぞくぞくっと身内が震えて鳥肌が立った、その瞬間、この映画は傑作に違いないと確信したのだった。
朝の首都高を走り出すトヨタ2000GT、静かに出るメインタイトル、2000GTが車をすり抜けながら爆走するタイトルバック、かぶされる菊池雅章の音楽、このような調子で「ただ車が走っているだけ」であるこの映画は、ラストまでノンストップで走り抜けて、そして燃えた。
カーチェイス映画に造詣がないので何とも言えないが、以前に観てひどく感銘を受けたタランティーノの『デス・プルーフ』に勝るとも劣らないチェイスシーン、というか西村潔の、攻撃的なのだけれどジャジーで濡れたそれとは全く別物か、昂揚感と安息感のアンビバレントな混淆、この心地良さ、言葉じゃうまく表現できない。この映画は劇場の暗闇でスクリーンに身を委ねて、しかもエンジンの振動がそのまま体を直撃する重低音の効いた爆音映画祭において観られるべき映画だ。そう、考えるな、感じろ。


主人公の女と男にとってのエロティシズムとは言うまでもなく「スピード」である。つまるところこの映画はカーチェイス映画ではなく、男女のプラトニックな愛の映画である。女と男の二人切りで行われるカーチェイスもといカーランデブーは、言うなればまんま彼らのセックスであり、明らかに西村潔もそこだけ画づらをキラキラと撮っているのである。告白すれば、ここまで美しいと思ったセックスシーンを僕は観たことがない。ただそのセックスの最後に、彼らが波濤の中を車で走ってくる場面には、思わず失笑を禁じ得なかった。「波濤」は言うまでもなく二人が結ばれた、オルガスムスに達したことの暗喩で(まんまそういう風に撮っている)、こういうことをなんの臆面もなくやってしまう西村潔に笑った。


「性的絶頂」のことを指す独逸語「オルガスムス」が「小さな死」という意味ならば、彼らの「生」の称揚は大きな死に向けて、「性」を超えてなお突き進まなければならず、「波濤」シーンを終えた瞬間に、キラキラからまたバトルモードへと続くのは必定、そしてその結果は自明の理なのであった。


例えば、忘れようとすればするほど人間はそのことを忘れられず、逆に心の中でそれが大きく成長していくように、スピードの世界と無縁でありたいと頑なに願う見崎清志は、その実、スピードという摘出不可能な癌を身内でひっそりと静かに大きく大きく育てているようなものだ。江夏夕子との一年ぶりの再会で交わされた「覚えてる?」「忘れた」の一言は癌再発の、また男の愛のスイッチであった。しかしそれは愛する者へ死を与えることも同時に意味し約束されたスイッチ。そのようにしか女を愛せなかった男の心中とは一体如何ばかりなものか。想像もつかない。



というわけで、吉祥寺のバウスシアターで映画を観たのも初めてならば、当然「爆音映画祭」も初体験なのでした。
”爆音”と言うぐらいなので、観る前はひどく心配でした。あまりのうるささに頭が痛くなるかも…、気分が悪くなるかも…と。でも実際体験してみると思っていたほどではなく、確かに重低音の振動は体を直撃するけども、他は別に”爆音”というほどでも。ただやっぱりエンジンに火を入れるとそれに合わせて体もブルブルンと振動するので臨場感がありましたけどね。
しかし、明らかに観てるでしょって人たちも大勢来ていて、改めてこの映画のカルトぶりを認識した次第です。
上映後、某女子がつぶやいた「ただ車が走ってるだけなのにすごく面白い」はけだし名言。ほんと不思議な映画だよ。


というわけで、『ヘアピン・サーカス』(1972/西村潔)は、6月4日13:25にもう一回上映されます。
奇しくも『デス・プルーフ』も6月8日21:00にあるんだなぁ。爆音映画祭において、この手の車映画はたぶんエンジンの振動が心地よいはず。行こうかな。