ゲゲゲの女房

今日のポレポレのトークゲスト、鈴木卓爾だったらしい。
『痴漢電車 弁天のお尻』を観て以来すっかりファンなので、行けばよかったかなといまにして少し思う。



鈴木卓爾監督ゲゲゲの女房を観ました。
原作も読んでないし、ドラマも観てないので比較できないけれど、映画は摩訶不思議でなかなか面白かったです。
嫁いできたゲゲゲの女房が夫の描く漫画の中にいきなり放り込まれ、次第に馴染んでいくかのような趣があり、水木しげるの世界観を底流させることに重きを置いているファンタジーだと感じました。


例えば、『ツィゴイネルワイゼン』では「切り通し」を抜けると異界だったけれど、『ゲゲゲの女房』では「橋」がその役割を果たしています。
調布パルコがあり、電光板を搭載したバスが走り、大勢の人々が慌ただしく行き交う橋の向こう側が、ムラジュン演じる金内に言わせるならば「耐えられない世間」、つまり現実であり現在の風景であるのに対し、橋のこっち側(ゲゲゲ宅側)は妖怪がところどころにごく自然に散見できる、なにげない日常に異界が立ち現れて交錯している内田百鬼園水木しげるの妖怪漫画まんまの世界になっている。そして、その風景は昭和三十年代のどこかゆったりしたそれなのだ。
ピストルオペラ』でも冥界のイメージが桟橋で表象されていた記憶があるけれど、川は三途の川を持ち出すまでもなく此岸と彼岸を分ける表象でありましょう。しかし『ゲゲゲの女房』では、河原に懸衣翁や奪衣婆などといった物騒な輩はおらず、小豆洗いと川太郎がおるばかりのただただのほほんとした、いわゆる「ゲゲゲ世界」なのだった。


しかし僕がこの映画で一番感じたのは、貧乏ながらも生きていく夫婦の絆やあり方でも、妖怪さえどこか明るくのほほんとしているファンタジー世界でもなく、ゲゲゲ家の二階に間借りしているムラジュン演じる金内の「闇」なのだった。
前半はたまに画面にちょっと現れるだけの男だったが、最後にふとしたきっかけでゲゲゲ夫に実は自分には妻と子供がいることを告白する(つまり金内は蒸発中なのだろう)。そして似顔絵を描く商売をするために「橋」を渡り、街(調布パルコ前)に出ても自分一人だけ世間(=「現実」)から取り残されている観念に襲われ、そこに一時間も立っていられない、耐えられないのだとつぶやく。おそらくここがこの映画で唯一暗く、劇中何度も繰り返された貧乏などとは比較にもならない悲痛な、ゲゲゲ世界観の基底と最もかけ離れたシーンだろう。
ゲゲゲ家は居心地が良いと言っていた金内も、ゲゲゲ夫婦に子供ができ、ゲゲゲの仕事が軌道に乗るかと思われるところで、間借りしていた二階から去って行く。
それはゲゲゲ夫婦に触発されて妻子のもとへ帰って行ったわけではないと考える。例えば、彼にとって「橋」を渡ることが「耐えられない現実を受け入れる」ことのメタファーならば、劇中何度も現れる祠(?)の前を通って「橋」に向かわなければならない(顔をこちらに向けて歩いてこなければならない)のだが、金内は祠に背を向け遠ざかるようにさらに奥へと去っていく。このように彼はこれからも現実を逃避し蒸発し続けるのだろう。「橋」から遠ざかれば遠ざかるほど、それは冥界の闇にますます近づくことであり、彼の妖怪化は目前、いやむしろすでに妖怪になっていたのかも知れない。ただしゲゲゲ世界において極めて稀有な圧倒的な負のオーラを持った妖怪に。
いや、もしもこれを水木しげるの妖怪漫画視点で観るならば、ムラジュンは妖怪というよりも「風景」に近づいたと言った方がいいかも知れない。水木しげるの妖怪漫画が怖いのは、なにも妖怪のせいではない。水木しげるの描く妖怪は、それがいかに悪であろうとも愛嬌があるからだ。では、水木しげるの妖怪漫画のいったい何に畏怖を感じるのかと言えば、それは風景であり、その奥にある闇なのだ。
どこまでものほほんとしたゲゲゲ世界において、唯一無二のムラジュンの闇は瞠目に値すると思う。


ゲゲゲの女房』のエロチシズムにも触れておこうか。
雑巾がけの作法に詳しくないが、吹石一恵が後ろに下がりながら雑巾がけする場面でカメラはワンワンスタイルをした吹石のお尻ばかり撮っている。お尻がカメラに近づいてくる。このカットを挟んだ理由がよくわからないのだが、ようするに吹石ファンに対するサービスもしくは監督の吹石さんに対するセクハラということでOK?
自転車を漕ぐ女のバックショットのエロチシズムは、ハンス・ベルメール曽根中生(『続ためいき』)らが喝破していたが、雑巾がけする女のそれを出してくるとは、この一件のみでも鈴木卓爾の名は後世に残るであろう(ほんとかよ!)
にしても、監督に対する変な先入観からか、台所に立つ吹石を見ただけで妙にそわそわしてしまった。ムッシュムラムラしたムラジュンが後からいきなり襲ってくるんじゃないだろうかと思って。おぞまし3組…(『ゲゲゲの女房』に限ってそんなことはありませんでした)
そして以前に『やくざ囃子』(http://d.hatena.ne.jp/migime/20070723)で勉強したが、『ゲゲゲの女房』の「意味ありげに消える蝋燭の火」も夫婦のチョメチョメを暗示しており、”おっ!やりおった!”と内心ほくそ笑んでいたら、その次のシーンは冬から夏に飛び女房の妊娠が発覚するという案の定の展開に。ドラマにもチョメチョメシーンはあったのかなぁとかふと思う。


その他にも、撮影は美しく、音楽はかわいらしく、満足の二時間だったのです。
そして漫画の中の鬼太郎や悪魔くんや吸血鬼ジョニーがおもむろに動き出し始めるアニメーションがものすごーく素晴らしく、アニメだけもう一度観たい衝動に駆られたのでした。



水木先生と言えば、一度だけ調布(甲州街道)で見かけたことがあります。コンクリ塀に向かって、一人でぶつぶつと何事かを話しかけていました。僕にはわかりませんでしたが、あれはぬりかべだったんでしょうか?