『現代娼婦考 制服の下のうずき』における作劇または心理過程の考察


 『現代娼婦考 制服の下のうずき』(1974/曽根中生)は開巻が最も重要な気がする。
 このアバンタイトルをどう見るかで、映画の、物語の捉え方がまず最初に大きく変わってくるからだ。


 少し説明すると、日活マークの直後に現れるアバンタイトルは、ハイコントラストでシルエット化した女の横顔、「お荷物なのよ」というその女の気怠い、なんとも印象的な一声から始まる。そして、その女の独白は大筋で以下の通りで進む。
・いとこの女の子とアパートに一緒に住んでる。私はその子がお荷物
・そのいとこは六つまで孤児院で過ごしたかわいそうな子
・そのいとこの母親(私のおばさん)は、ヤクザと駆け落ちして捨てられて病気になって、いとこを残して死んだ
・そのいとこは私の母親の妹の子供
・そのいとこは人殺しもしてる、子供のときに
 この独白に男が「複雑なんだなぁ、君の家って」言った後に、たっぷり間を空けて、「そう、複雑なのよ」と女が応え、タイトル、タイトルバックへと移る。
 またそのシルエット化した男女の声を背にして映し出される映像は、シルエットの女が「いとこの女の子」と言ったのを受ける形で潤ますみが歩く映像に変わり、白いシーツにベッド、男のネクタイ、喘ぐ潤ますみ等のカットが繋げられていく。


 シルエットの女の「複雑なのよ」という台詞が、まさにこの映画の行く末を暗示しているかのようで、『現代娼婦考 制服の下のうずき』は、”いとこ同志”である夏川真理(潤ますみ)と斉木洋子(安田のぞみ)の確執を描いた映画であり、二人が主人公と言えるのだが、つまりこのシルエットの女を、真理と捉えるか、洋子と捉えるかが問題なのだ。
 例えば、「いとこの女の子」とシルエットの女が言ったとき、それを紹介するように闊歩する真理が映し出される編集とか、独白の内容からも洋子をシルエットの女と見るのが極めて論理的である。
 しかし、映画を最後まで見ると、事はそれほど単純でなく、開巻の一連のシークエンスと最後のシーンとは、同じ時間、同じ場所であることに気づく。それは真理が点かないライターで男をひっかける場面を、開巻と娼婦になった後のシーンに挿入させることで表しているのだし、そのときひっかかる男のネクタイ柄も全く同じであることからわかるのだ(娼婦になった真理が客と寝るたびに、必ずその男がつけていたネクタイのカットが挿入されるという規則性。その柄の違いで何人もの男と寝たことを表している。また長弘の場合は、まだ完全に娼婦になっていなかった)。
 すると一つ奇妙なことに気づくのは、シルエット女の独白の内容で、つまり真理は洋子の立場になって、自分のことを鳥の目で俯瞰しながら(そういうショットと編集)、自分のことを話しているということになるのである。
 そういう意味で、かなり歪な形はしているが、物語の構造はむしろ『番格ロック』に近いのではないかという気がしてくる。


 例えば、『番格ロック』(1973/内藤誠)を観るとき、プラトンの『饗宴』を想起することは容易い。
 すなわち、あまりに有名な「愛慕の説」の一節アンドロギュヌスのくだり、「原初の人間は両性具有者であって、その容姿は球形であった。ところが、傲慢な人間どもは神々に逆らって、天上への登攀を企てたので、ゼウスが怒って、すべての人間の身体を二つに切断した。それ以来、人間は本来の姿が二つに断ち切られてしまったので、みなそれぞれ自己の半身を求めて、ふたたび元の一身同体になろうと熱望するようになった」というあれである。
 音無由紀子(山内えみ子)とアラブの鷹(柴田鋭子)は女同士ではあるが、お互いが失われた半身であるという意味で、「引き裂かれたアンドロギュヌス」と言って差し支えあるまい。
 それは特別少年院の懲罰房で”背中合わせに繋がれた”二人の姿や、一本の裁ちバサミを二人で分かち、その刃で決闘をするというあまりに象徴的な行為を見てもわかる。
 二人は敵対しながらも、心の奥では通底している。安直に言えば、二人は愛憎の関係であるし、またレズビアンの関係を見ることもできよう。それが証拠には、由紀子はアラブの鷹を廃人にしたヤクザ(鹿内孝)はもとより、その子分で根っからの悪人ではなかろう自分の恋人(誠直也)をも、失われた半身、つまり自分自身の復讐のためにぶち殺すのだ(そして由紀子は永遠に半身を失われることになるのだろう)。


 失われた半身と一体化しようとする希求は、『現代娼婦考 制服の下のうずき』でも見られるように思う。しかし、それが『番格ロック』のような凛とした美しさではないのは、やはり真理の洋子に対する一方的で、陰鬱で、歪んだ妄執であることに起因する。
 まず真理の一体化願望の萌芽は、洋子を自分と同じ境遇に貶めたい、また洋子の男を共有しようとする形で表れるように思う。
 前者に関しては、洋子がどもりの青年に襲われたとき、真理はそれを助けようとせず、むしろ物陰に隠れて、その現場を鋭い目で睨みつけていたことを思い出せばいい。
 直接的に描写はされていないが、真理が過去に洋子の友達に強姦されたことは、例えば、洋子強姦未遂事件にふれてヒロミ(くるみ夏子)が言った「強姦未遂なんて素晴らしい経験をして羨ましい」という言葉に対して、それを洗面所で聞いていた真理の顔が一瞬にして険しくなるカットの挿入や、影山英俊の「きみ、怖いよ」に対しては「あなたたちを憎んでいるからでしょ」と返すことなどから鑑みて明らかであって(またヒロミの真理に対する「産婦人科」という揶揄から、堕胎経験をも暗示させる)、故に真理はあのとき洋子を助けなかったのである。
 また後者に関しては、まずは洋子の婚約者であるところの五條博とのセックスを思い出せばいい。このとき真理は洋子の服を着て、洋子のベッドで、洋子の婚約者に抱かれるのである(また蛇足だが、真理と洋子のそれぞれの着替えシーンを、五條博がアパートに訪れるときに限ってわざわざ挿入するのも、二人がシンメトリーをなしていることの表現ではないだろうか)。
 しかし、そこには倒錯というよりは、洋子に対する当てつけ以外のものはなく、事が終われば、五條博には「あなたは洋子さんのベッドで寝てね。私は自分のベッドで眠るから」などと言って実にドライなものである 。
 その真理の態度は洋子の半恋人である影山英俊を寝取ったときも同じで、影山の「来てくれるとは思わなかった」に、気怠く「ただの暇潰しよ」と応えるだけ。
 真理と寝た男たちはいつでも取り残されるばかりなのだ。そう、真理の目は男たちにはいっかな向けられず、常に洋子の方を向いているのである。


 しかし、常に男が真理に取り残されるというのは厳密に言えば正確ではない。それは真理が洋子の男たちの場合とは違った感情で接した、どもりの青年(中沢洋)の場合があるからだ。
 どもりの青年はいわば世間から虐げられている村八分者である。強姦未遂の罪で警察に追われてもいる。
 周りに味方が誰一人おらず、小さい頃から娼婦の子と蔑まれ孤立し、(真犯人は洋子であるが)殺人の罪まで着せられた真理が、青年の境遇と自分のそれを重ね合わせてシンパシーを感じたとしてもなんら不思議はあるまい。
 孤独感に打ちのめされていた真理を救えたのが、映画の中でこの青年だけだったのは確かなのである。


 その真理の孤独は、仮に置き去りゲームと名付けるシークエンスのときに描写される。
 一人だけを車外に残し、その他のメンバーは先に車で次のドライブインに行き待つという洋子らの遊びで、真理が置き去りになる番が来たとき、一人で右往左往する真理の姿と併行して、真理の幼少時代のシーンがカットバックされる。
 それはお兄ちゃん(正確には洋子の兄)と遊んだ思い出である。
 孤児院で育ち、親戚の家に引き取られてからも娼婦の子と蔑まれた真理にとって、やさしいお兄ちゃんが真理の唯一の「居場所」であった。
 その真理の拠り所が、拳銃で撃たれて死んでしまう。しかも犯人の洋子は、その罪を真理のせいにする。
 その場面を最後に回想シーンは終わり、次のカットはその幼少時代とまるで同じかのように、夜のとばりに孤独をまとって佇む真理が映し出されるのである。


 そしてそのすぐ後、真理が自らどもりの青年に接触を試みるシーンに繋がる。つまり真理は置き去りゲームをきっかけとして、お兄ちゃんを失って以来となる「居場所」を欲する気持ちになっていたのである。
 距離を縮めようとする真理に、青年は最初卑屈に警戒していたが、真理が「(レイプは)洋子さんと私を間違えたのでしょう?私だったら警察に訴えたりはしなかった」と言ったとき、満面の笑み(下からのあおりアップ)を浮かべる。
 そしてその直後、廃墟の風景のみが3カット、パッパッパと挿入されるのだが、その最小限のカットで二人がそこを訪れ、(大胆に省略はされているが)セックスしたことを表している。
(廃墟の風景カットは時間にして2〜3秒で、そして真理の下校を洋子が待っているシーンに繋がる)


 しかし、青年と肌を重ねてみても、二人の間には埋まらぬ溝があり、結局相容れないことがわかってしまう。それが現出するのが真理が廃墟に訪れるシーンである。
 暇潰しにもならないつまらぬ男(影山)と寝た帰り、電車の車窓からかつて青年と肌を交わした廃墟を見たとき(青年に対する心情が決定的になった瞬間、このときの潤ますみの表情は素晴らしかった)、真理がふたたび青年に会いたいという気持ちになったことは、下車して廃墟に向かったところから疑い得ない。
 何故そう言い切れるかというと、これより前の他のシーンでの洋子の詰りが真理の本質、行動原理を的確に言い表しており、それを曽根中生が後に真理と青年の関係を説明するための伏線として機能させているから。
 そのときの洋子曰く、「高校のときに家出したのだから、そのまま帰って来なければよかったのに。行く所がなかったから戻って来たんでしょ?」
 つまり真理は今自分を取り巻くあらゆるものを投げ出して(言うなれば洋子からの家出である)、恋情などと大袈裟なことは言わないが、青年に自分の「居場所」を今度は求めたのである。
 だが廃墟に行ってみると、青年が人形(白いブラウスに赤いタイトスカートを着させられている、まるで真理であるかのようなマネキン)を棒で激しく叩いている暴力的場面に出会す。
 驚いて逃げ出す真理、屋外で青年に捕まりナイフで脅される、カメラはそれを俯瞰の超ロングショットで捉える。彼らの台詞はヘリコプターの爆音で掻き消されており(ヘリの爆音は青年のテーマ音であるかのように、かつて洋子強姦未遂のシーンでもけたたましく鳴り響いていた)、何をしゃべっているのかは全くわからない。一枚ずつ服を脱ぎ出す真理、そこでロングショットから青年を下からあおるカットに変わるが、そのときもう青年の関心は真理には全くなく、飛び出しナイフをただただ何度もズチャ!ズチャ!と飛び出させ、太陽に反射する刃の閃きに恍惚とするだけなのである。それはまるでなんぴとの理解をも超越したところに行ってしまったかのように。
 それを見た真理は、自分の部屋に帰り、赤いソファに埋もれながら虚空を見つめ、今度は真理の方が男に取り残されたことを強く感じるのである。
 (このときバックに流れるのが潤ますみ『裏町巡礼歌』、「どこか遠くへ行きたいな」という歌詞部分である。行きたいけれど、行けない心情を歌でも説明している。ちなみに余談だが、映画では出て来ないけれど、この曲には「見知らぬ人に賭けたけど、星の降る夜に捨てられた」と歌われる箇所もある)
 そして、青年が自分の「居場所」ではなかったことを悟った真理はふたたび洋子の元へ戻るのである。高校のときの家出と全く同じ顛末をもって。


 そして、その洋子の元へと戻る道は、洋子との一体化へと突き進む道であった。青年(新たな「居場所」)との決別を皮切りに、運命はまるで詰め将棋のように真理を殺人へと一手一手追い詰めて行くのである。
 どもりの青年との決別を発端とすれば、さらに真理を人格崩壊へと導く最初の蹶起となったのは、例の如くなんの説明もないが、競馬場のカットからすぐに切り替わる、長弘とのセックスシーンだろう(競馬に負けて、その場で男をひっかけたのだろうか)。
 事が終わり立ち去ろうとする男に、真理は「お金ちょうだい」と言う。数枚の札を男は渡すが、真理は「もっとちょうだい」と言う。男は苛立たしげに真理の髪の毛を掴んで「おまえはパンパンガールか?」と詰問するが、真理は首を横に振る。男は「でもやってることは同じだよ」と呆れたようにお金を放り捨てて去る。
 いままで娼婦の子と蔑まれながらも男に体を売ることはしなかった真理が、初めて売春をした瞬間である。
 このときの真理がどういう気持ちであったかはわからぬが、ただその帰り道、柵を手でカランカランとやりながら落ち込むように俯いてアパートへと歩く真理のカットであることから察するに、真理にとって決してプラスに作用する出来事ではなかったことは確かであろう。


 落ち込みながらアパートに帰ってみると、そこで洋子が引っ越しの準備をしている場面に出会す。
ここで初めて洋子の話をするならば、引っ越すことによって真理から離れようとしたのは、母親の死がきっかけであっただろう。
 洋子の家は、父親(雪丘恵介)と母親(橘田良江)、父の妾(星まり子)、兄(藤田漸)、そして母の妹の子である従姉妹の真理が同居していた複雑な家である。
 特に父の妾であるユキは、兄とも肉体関係があり、兄の死の遠因ともなった女で、洋子にとってはもっとも忌むべき存在であったが、しかし母親はユキを追い出そうともしなかった人なのである。
 母の葬式でユキと対峙した洋子は、「私の青春はこの家の人にめちゃくちゃにされた」と言うユキを一顧だにせず、「私は母とは違うわ」とユキを斉木の家から追放するのである。
 例えば、みんなから娼婦の子と言われる幼い真理が、「娼婦って何?」と兄に尋ねる場面で、兄は「ユキみたいな女の人のことだよ」と嫌悪をもって答えたことを思い出す(女性に潔癖を求める男性心理は『死ぬにはまだ早い』の黒沢年男と重なるところがある。兄が「売女め!」と叫んだあとに太陽に向かって拳銃を発砲するシーンはいい)。
 つまりこの映画の中では、実際すべての娼婦が皆そうとは限らぬが、娼婦は淫蕩、忌むべきものの記号であり、それを暗黙の約束事としているのである。
 洋子にとっては、例えば映画の前半に五條博に言った台詞を思い出してもいいが、「真理はそういう血をひいている」のであり、ユキも、真理の母親も、真理も、すべて「娼婦」と一緒くたにカテゴライズされ、忌むべきものとして特に区分はないのである。
 そして現に真理は、洋子の偏見が正しかったと言わんばかりに、結局長弘に春を売ってしまったのである。


 洋子はとにかく真理から離れようとするが、その理由がわからぬ真理は洋子を問いただす。
 二人は軽く言い合いになり、そのとき真理は「私は小さいときから洋子さんになんでも命令されてやってきたわ。いまさら一人勝手にやれと言われてもできないわ」と言い返すのだが、この告白は真理の偽らざる全くの本心であり、この映画の核心でもあろう。
 仮に洋子から受ける屈辱に耐えられないというのであれば、大学生の真理はいっときも早く洋子から離れ、何をしてでも一人で暮らすことはできたはずなのである。
 「洋子さんの言いなり(兄の事件のとき洋子の罪をかぶったこと)になったから、私はこんなになった」と洋子を詰る真理。
 しかし洋子に言わせれば、例えば先のユキとの対峙が伏線となって、娼婦という記号でイコールである真理の本質を間接的に説明するのだが、結局真理自身が「そういう生き方を選んだ」ということなのである。
 ここで真理の本質について鑑みるとき、すぐさま想起されるのは、ジャン・ポーラン「奴隷状態における幸福」の中の一挿話であろう。すなわち、法律によって自由の身分になった黒人奴隷らが、主人にもう一度自分たちを奴隷の身分にしてくれと頼むのだが、主人がそれを拒むと黒人たちはその主人を殺し、再び自分たちの奴隷部屋に戻ったというエピソード。


 そこでやっと真理の洋子に対する殺意の源がわかるのだ。
 そう、真理がいくら洋子にささやかな抵抗を表面的に試みようとも(例えば、洋子「(真理は)家政科よ」を受けて、真理「女中科よ」と二人の関係を皮肉るシーンなど)、深層の部分、無意識的な本能(イド)はやはり奴隷であることを求めている。洋子なしでは生きていけない真理にとっては、洋子と二人で一人なのだ。
 洋子への殺意は幼き頃から受け続けた侮蔑や屈辱に耐えかねての復讐心からなどではなく、つまりはすべて自分の「居場所」問題に起因することだったのである。
 そして、二人は決別する前に最後のドライブに出掛ける。
 そこで洋子の「真理は”自由”よ。何でもしたいようにすればいいんだわ」という決定的な言葉を受けて、真理が間を空けて「ええ、そうするわ」と答えたとき、真理は洋子を殺すことを車の座席にズブズブと沈みながら決意するのである。


 ドライブの帰り道、ガソリンスタンドの洗浄機に車が入ったとき、激しい轟音の中、真理の凶行が行われる。そして洗浄機(子宮の象徴)から車が出て来たとき、洋子を殺したその女は、まるで新しく生まれ変わった新生児のように、もはや真理であって真理でなくなっているのだ。
 ここでこの考察の冒頭に提示した、真理は洋子になって真理のことを話すという謎、開巻のシルエット化した女の独白の意味が解けるのである。
 殺人をきっかけに、姿こそ真理だが、人格は洋子になっているのである(娼婦は真理の担当人格部分)。
 例えば、洋子の母親の葬式のため田舎に帰るときの荷造りシーンで、洋子がツバ広の白い帽子をかぶって見せて、真理に似合うかと問う唐突な会話があるが、これも後に二人が一体化したことを表す伏線として機能している。
 すなわち殺人後、洋子の人格になった真理はその白い帽子をかぶるのだし、もっと言えば、真理の代替として主人に対する態度がひどく悪い少女の女中と暮らすのもすべて洋子の人格によるものなのである。(シーンの時間軸を考えれば、冒頭シルエットの女(洋子人格)が言っていた「いとこの女の子と暮らしてるんだけど…」というのは、実際は真理の代替を意味するこの少女女中と暮らしていることを指していたのがわかる)


 殺人を発端として、安直に言えば真理は発狂したのだ。現実的に言い換えるならば、真理は解離性同一性障害を発症したのであり、その発症経緯や症状などのパターンは、実際の場合とほぼ一致する。
 例えば、洋子と二人で一人だった真理にとって、洋子の死は自身の半身の欠落を意味するのだし、根っこの部分で奴隷体質であった真理にとって「自由=主人(洋子)の死」こそが極度の心的外傷だったと考えた場合、その精神的苦痛に対する本能的な自己防衛として解離性障害を発症することは十分ありえるのである。
 その症状としては、口調や態度がガラリと変わることがあるという。また交代人格の中には迫害者人格と呼ばれるものがあり、自分に危害を与えた者がそのまま人格となって現れるということは現実でもままあるそうなのだが、映画でもまさにそうで、真理に「危害=自由」を与えた洋子は殺害後真理の中に現れるのである(そういう意味では、数多ある「多重人格映画」の系列に加えてもいいと思う)。


 あるいはもっと形而上学的に言い直すならば、やはり真理と洋子はアンドロギュヌスであり、お互いは自身の半身だったのだと。
 例えば、『番格ロック』では裁ちバサミがその象徴であったが、『現代娼婦考 制服の下のうずき』の場合は、兄、そして兄の事故に関する秘密がそれを担い、真理と洋子の二人を繋げていたのではなかったかと、映画が終わりにさしかかるとき少女女中が拾い上げ、スクリーンに大写しにされる、兄、洋子、真理が三人で一緒に映っている写真を見たとき、なぜだかそう思えてきて仕方なかったのである。
 幼き頃から「居場所」を求めて彷徨い続けた真理の妄執は、最後に洋子と一体化することで結実し、自らの中についに安息の居場所を得ることになった。
 エンドマークの際に現れる、白い帽子をかぶった真理と洋子の後ろ姿が、私にはなにやらひどく崇高なものに見えたのである。