現代娼婦濡れ場考

 先日オーディトリウムで行われた曽根中生特集で、『続・レスビアンの世界 愛撫』を初めて観たが、濡れ場に関して『実録白川和子 裸の履歴書』を想起させる場面があり、ハッとした。
 女実業家(水乃麻希)と主婦(言問季里子)がホテルでレズるシーンで、なんとカメラは二人の裸体を映さずに、たゆたいながら壁を映し続けたのである。
 そこに映し出された壁紙、黒地に緑と黄色の花模様が美しいアラベスクは、たゆたいながら無限に折り重なり絡み合うレスビアンたちの世界を暗示させ、象徴しているかのようだった。


 この手のファックを映さない濡れ場は、『実録白川和子 裸の履歴書』にもあって、白川和子に織田俊彦が結婚を申し込んでそのまま性交に移る場面で、男女の性交はそこそこにカメラは動き始める。
 それは誰の視点であるか詳らかではないが、まるで幽体離脱した白川和子の魂の視点であるかのように、性交中の自らの体を離れ、真っ暗な部屋を彷徨いつつ、台所の水にさらした野菜にまで視線(カメラ)は到る。
 「台所の水にさらされた野菜」は「結婚」のメタファーであり、野菜にまで到って止まる視線はつまり白川和子の心ここにあらずっぷりをよく表している。性交の最中にもかかわらず(男と自分の体はそこに置いて)、白川和子の魂はすでに「団地妻」になる喜びに、幸福に、思いを馳せていたのだ。
 勃起前提の濡れ場としては落第であろうが、たった一つのカメラワークで「女」というものを感じさせた仕事はただ感歎に値する。


 ちなみに、『続・レスビアンの世界 愛撫』 『実録白川和子 裸の履歴書』ともに、監督曽根中生、カメラマンは森勝である。



 例えば、ロマンポルノに関する言説に「10分に1回濡れ場を入れれば、あとは何を撮ってもかまわない」というのがあり、それは現在でもまことしやかに囁かれている。
 もしもその約束事に遵守するならば、仮に作り手がそれを望まなくても、それが必要でなかろうとも、濡れ場を無理矢理入れる場合は多々あるだろう。現に濡れ場が映画の流れを断ったり、無駄だと思われるそれに出会すことはロマンポルノを観ていれば、いくらでもあることだ。


 しかし、約束事に遵守しながらも、濡れ場を省略していると言ってもよい希有な例もある。
 仮にそれをあげるならば、その最たるものは小原宏裕の『OH!タカラヅカ』ではないだろうか。
 ある新米教師(冨家規政)が、「右手の恋人さようなら、やりまくるぞー」と意気込んで女だらけの島に赴任してくる話だが、しかしこの教師、超が付くほどの早漏で、濡れ場に突入しても三こすり半も経たないうちに終わる(なにせ女の裸を見ただけで射精してしまうほど)。しかもこの映画の中で一番長尺な濡れ場が、教師がホモにお釜を掘られるシーンという、既存の濡れ場へのアンチテーゼともなっている。女優の裸もといチョメチョメを観てシコシコしたい客にとってはこれほど腹立たしい映画はないのではないか(美保純さえ見られればいいのか!)。


 そして、以下を「濡れ場の省略」と言うと少し語弊があるかも知れないが、例えば、神代辰巳などは濡れ場でも大体男女にべちゃくちゃ台詞を喋らせて話の流れを切ろうとしないし、長谷部安春の不条理劇にはやはりレイプこそ必要不可欠で、それがスタイルにまでなっているし、さらに田中登の『マル秘色情めす市場』にいたっては、濡れ場を特に意識して観てみるとわかるが、全ての濡れ場が物語と不可分であり、無駄なそれが一つもないという驚嘆に価するものだった。


 しかし、曽根中生が『現代娼婦考 制服の下のうずき』でやったことは、そのロマンポルノの約束事をあっさりと反古にしたことである。つまりそれは濡れ場それ自体の「省略」である。
 繰り返して言うが、濡れ場を挿入することが厳命だったロマンポルノという枠組みの中で、かつてその描写をばっさりカットした映画が他にあっただろうか(いままでそんなことは思いもよらず、それを意識的に観ていなかったので、他の作品でそれを気づけてないだけかも知れないが)。
 もちろん『現代娼婦考 制服の下のうずき』に濡れ場がワンシーンも出て来ないという意味ではない。濡れ場は出て来る、しかしそれは物語上、特に必要を感じるものではなく(くるみ夏子の濡れ場など。一体誰が観たい?)、映画の核心に迫る重要な濡れ場の方こそカットしていることである。
 例えば、クロード・シャブロル『引き裂かれた女』は、濡れ場の一切が省略されているエロ映画だった。
 老作家が若い恋人の誕生日に「きっと喜んでくれると思うんだ」と言って何かをプレゼントしようとするシーンがある。この後は誕生日と関係ないシーンに飛ぶので、何をプレゼントされたのかは描写されていない。しかし、映画の流れから察しのいい観客はそこでわかったはずなのだ。シャブロルのやさしいところはそれを最後で種明かしするところだろう。つまり若い恋人は老作家から「乱交」をプレゼントされたのだと。
 『現代娼婦考 制服の下のうずき』の場合も『引き裂かれた女』と同様に、「映画の核心に触れる濡れ場の省略」というロマンポルノにとっては革新的なことがなされているのだが、曽根中生の場合さらに質が悪いのは、それを最後まで種明かしせず、そのほとんどを観客の想像力に委ねているところにある。
 その最たるものが、真理(潤ますみ)とどもりの青年(中沢洋)のセックスシーンを廃墟の風景3カットのみで表現してしまったことだろう。
 確かにそれだけで濡れ場の省略を読み取ることは困難だが、その風景カットのしばらく後に、真理が電車の車窓からその廃墟を見、下車して廃墟に向かうシーンがある。何故そこで青年に会うためにそこへ向かえるかといえば、論理的に過去に一度行ったことがなければおかしいからである。
 また真理の発する言葉は意外と素直な心情の吐露であるので、青年との会話の内容からも二人の間に性交渉があったことをうかがい知れるのだ。
 そして、真理と青年に交渉があったことがわからなければ、真理の終焉へと向かう心の流れがうまく掴めないのである。


 私見では、『現代娼婦考 制服の下のうずき』で濡れ場自体が省略された箇所は、真理と五條博、真理とどもりの青年の場合の二つである。そして回想として描写されても違和感がないと思うのは、真理が強姦されるシーンだろう。
 しかし、それら主人公である真理の濡れ場は、それぞれに真理の心理の過程を計り知る端緒、物語を紐解く意味が付随するものであるにも関わらず、省略され、代わりにくるみ夏子や清水国雄などの別にどうでもいい者の方のそれを描写するのである。
 またここで描写された濡れ場に関しても言えば、この映画ではどれ一つ劣情をもよおさせるそれはなかったように思う。安田のぞみの濡れ場は鏡台や車内ミラーに写し込むため画面が極度に限定されていたし、真理と影山のそれはテーブルや本の山でそのほとんどを遮り、工事現場の騒音もやかましかった。また真理と長弘の場合においてはすでに事後の描写だけであった。