近頃なぜかヤクザバヤシ

migime2007-07-23

カテゴリの「MFM」というのは「マイ・フェイバリット・ムービー」の略である。英語辞典の「MFM」にこのような略は載っていないが、今勝手に作った。ようは書くことも特にないので、極私的偏愛映画を気紛れに紹介するというゆるゆるのコーナー。記念すべき(?)第一回目は、1954年の東宝作品で監督脚本マキノ雅弘の『やくざ囃子』。

今年のシネマヴェーラ渋谷のマキノ特集で初めて観たのだが、鑑賞後、ロビーで脚本家の南木顕生氏と話していたら、”船の中で二人はやってたんですよ”と突然言うので、僕は吃驚して”あー!”と奇声をあげてしまった。それを聞いたとき、この一見ヘンテコな『やくざ囃子』が自分の中で見る見る氷解して行くのがわかった。目から鱗とはまさにこのこと。それに気づくか、気づかないかで、この映画の見方はガラリと変わる。南木氏の一言によって、僕の中でこの『やくざ囃子』は感慨深い映画となった。
”なるほど、そりゃ船の中でロー・エンド・ローされりゃ岡田茉莉子だって船酔いもするわなぁ”と密かに思ったわけだが、本当に開巻直後も直後の出来事だ、周りには人がたくさんいる乗合船の中で、”声掛け即ハメ”をやってのけた男女を描いた映画が他にあっただろうか。
まあ観てない人には何の話やらさっぱりだろうが、ようはこの映画の開巻は、乗合船で皆が雑魚寝してる中、鶴田浩二岡田茉莉子の船酔いに気づき、鶴田は相棒などを起こしつつ親切に介抱してあげて、これをきっかけに鶴田と岡田はお互い惹かれるようになるというプラトニックに見える場面なんです、あくまで一見は。でも実はこの裏には、南木氏によれば「意味ありげに消える船室の灯りのカット」などによって暗示される鶴田と岡田の肉体関係がすでにあって、それをマキノが省略しているって話なんです、その省略が大胆すぎて普通は気づかないって話なんです。
「性的関係から始めてしまった男女の愛の辻褄合わせ」(南木顕生)
それが『やくざ囃子』を最も端的かつ的確に言い表した言葉だと信じます。大体僕などはいままでの人生、ほとんど”辻褄合わせ”ばかりですから(辻褄さえ合わせられないって話もありますが…)、感情的にこの映画はよくわかるんです、鶴田の行動や機微とかが。まあそれはともかく、初っ端から二人はやってることがわかると、腑に落ちなかったところがことごとく腑に落ちてくるわけ。介抱後、船から降りて、異様な雰囲気で別れを惜しむ鶴田と岡田とか、ここでの岡田茉莉子はびっこのかたわものなんですが、不具者だからってそれで引いたら不義理になるとか、気まぐれに思われたくないとか言う鶴田とか、鶴田のマインドコントロールとか。
あとこれは私見だが、びっこの岡田茉莉子はおそらく名器のはず。まあ纏足を単純に引き合いに出すのもどうかだけれど、通ずるところはあると思うのだ。「纏足」とは中国で10〜20世紀初頭まで続いていた風習で、中国において”足の小さい女性は美人”というのは表向きのこと、その隠された真の意味は”セックス奉仕のために造られた人工的な愛玩奇形”であったに違いないのです(たとえば『エロ将軍と二十一人の愛妾』などの”それ”とか。中国奇形趣味についてはまた話す機会もあるやも知れない)。
まずその一は「足枷」で、纒足をした足では非常に歩きづらく、直立さえも困難だったのだから、その意味は姦通を防止するための貞操帯だった。
その二は「アソコの締まり」のためで、纒足された女性は足下が不安定なため常に足の親指に力が入り、そのため膣の括約筋が発達し膣の収縮力を強める効果をもたらした。
その三は「媚態」と言っていいのかその視覚的効果、纒足による腰を左右に振った拙いよちよち歩きには妙にそそられるものがあったはず。
その四は「恥部」つまり精神的な意味で、ようするに当時の中国の女性にとっては足を男性に見せることは最も恥ずかしい行為のひとつだったのだから、ならば普段は絶対に隠されていて見えない足を露出させ、その足を愛撫することは、男性にとっても女性にとってもますます興奮度を増大させるための重要なファクターであった。
その五は「SM」、纒足から外した長い布はSMプレイの道具としても重宝した。
その六は「スメル」、一種のフェチシズムだが、纏足によって熟成されたその布や足のにおい(現代ならばロングブーツを履いた女の足のにおいとか)は、ある種のマニアにとっては格別な味わい。
その七は「特権」という意味でのエロティシズム、ようは纒足は中国人女性の全てが行っていたわけではなく、ごく限られた上流階級の女のみが行っていたのだから。確かに庶民の女が纒足などしていたら、日常の仕事もままならなくなるのだし、当然と言えば当然で、大体”日常化”した纒足などに何の魅力があるものか、特権とエロティシズムの蜜月的な関係など今さら言うには及ばず、やはり纒足は日常とは切り離されねばならないのだ。ちなみに纒足をしていない足のことを”天足”といい、これは”天然の足”という意味。
びっこという不具が岡田茉莉子のアソコにどれほどの影響力を及ぼすかは正直データ不足だが、ただ健常者とは違う効果が期待できるのも確かなような気もするし、まあ「アソコの締まり」云々はともかくとしても、彼女に妖しいエロティシズムがあることは確実で、まずその不具者としての「媚態」、びっこの拙いが、でもどこか艶めかしいその歩き、それに着物による小股のエロスが相俟る。また不具者である「特権」、たとえば古来我が国でも不具者が神と崇められるケースなどよくあることで(不具者が生まれなかった村では神官の目が潰された、など)、そこにエロティシズムが結びつくのはちっとも不思議なことじゃない。大体僕はこの岡田茉莉子に、三島由紀夫金閣寺』の不具者、内飜足の柏木さえ思い出すんだし、やはり「肉体上の不具者は美貌の女と同じ不適な美しさを持っている」(三島)のだ。
”気まぐれと思われたくない”だなんてよく言うぜ、ほんとは茉莉子におまえこそぞっこん惚れたんだろうが、というか、茉莉子の名器が忘れられなかったんだろうが、ええ鶴田さんよぉ。でもわかるぜ、内面がどうとか性格がこうとかしゃらくせえ、初めからオマンコありきの恋愛だってそりゃあらぁなな。
しっかし冒頭の乗合船でのチョメチョメから始まって、兄の居ぬ間にもひとつチョメ、さらにお面が割れて青姦チョメとプラトニックどころか実際はやりまくりの二人だが、それにもかかわらず、あの茉莉子のしれっとした態度、こいつは相当のしたたかもんだぁと思いました。マインドコントロールされたのは実のところは鶴田だったような気がして仕方がない。岡田茉莉子は不具性とも相俟ってやはり魔性に見えた。
それにしても何故に『やくざ囃子』の話なのかというと、察しのいい人はもうおわかりかと思うが、うちのブログタイトルは、『やくざ囃子』の鶴田が歌う主題歌からのいただきなのである、ようはただそれを言いたかったというだけの話し。だがしかし…
♪惚れたといったら嘘になる 恋といったら笑うだろ
何度口ずさんでみても、なんともいいフレーズではないか。性的関係から始めてしまった男の口から出た言葉というのを勿論ふまえて。ほんとうにいい。