江戸川乱歩×丸尾末広『パノラマ島綺譚』

migime2007-07-24

きんたまのにぎりかた*1、たまには丸尾末広の話でもしようかなんて、まあ、たまにはと言うか、いつもしてるんだが、わたくしと言えば丸尾、丸尾と言えばわたくしなので、今日も丸尾末広の話を書き殴ってやるか。と思ったら、日記を書く前からいきなり躓く。マルオ=エログロ論が主流であった時代に、それを真っ向から否定するようにその世界にスエヒリスム運動*2をひっさげて殴り込みをかけたのは実はわたくしなのであるが、草創期ならばいざ知らず近年は我が理論の優れた研究者もいるであろうと老兵は死なずただ消えゆくのみ、僕は第一線から身を引き(ようは飽きてしまっただけだが)、最近では映画ばかり観るようになってしまった(いや、大体丸尾を読むことは映画を観ることと同義ではないか。例えば丸尾版「東京物語」など、小津安二郎の『東京物語』を観ていない者が、この漫画を読んで笑えるわけはないだろ?)。そのようなわけで随分この世界から離れているせいか(ああ、言い訳が長い!)、僕には今必要な文献をパッと出すことができないのである。ああいうことを丸尾末広はあの本の対談の中で言っていた的なことが頭(記憶)の中から出せず、また部屋がゴミ山のためそれを思い出したとしても物理的に文献をひっぱり出せないのであった。なので途中曖昧な記憶または都合よく改竄された記憶が出てくるかも知れないが、そこは了とされたし。
とまたやはり前置きが長いわけだが、ようは『月刊コミックビーム』誌上で、江戸川乱歩の同名小説を原作とした丸尾末広『パノラマ島綺譚』の連載が始まったというニュース。しかし、近作『ハライソ 笑う吸血鬼2』を見ても、今の丸尾御大の筆力は初期ほどの魅惑がないこと誰の目から見ても否めなく、個人的にはウーン…という思いもなきにしもあらずだが、ただ原作が乱歩の『パノラマ島奇談』だと言うので、大体僕はこの世界には乱歩から入った口なので、その冠がつけば否応にも見逃すわけにはいかないなと。
世の中には乱歩好きが多い。乱歩を原作とする映画が数多く作られているのもその一つの証左であろうが、この事情は映画以上に漫画の世界で顕著であり、未見ではあるが個人的に乱歩のイメージがない大友克洋でさえ『鏡地獄』を描いているという。他にも「乱歩」「漫画」のキーワードでググれば有名なのも無名なのも、また無名でさえないのもいくらでも出てくるが(たとえば『鏡地獄』と言えば、利志達の描くそれは数多ある乱歩原作漫画の中でも傑作に数えられる一編であろう)、また漫画ではなく一枚の絵にまで範囲を拡げると、1994年4月号の『ガロ 特集江戸川乱歩』などは宝庫で、その中では丸尾末広日野日出志大越孝太郎天野天街、谷弘兒、川崎ゆきおなどが描いているが、特に花輪和一の「芋虫」と太田蛍一の「盲獣」が他を圧倒する出色の出来であると僕は思う。
たびたびその言動で乱歩のことに触れ、また乱歩の『芋虫』から着想を得た「腐ッタ夜 エディプスの黒い鳥」の一発でもって、丸尾といえば乱歩、乱歩といえば丸尾というイメージを確固たるものにした感があるが、しかし実際乱歩漫画の第一人者の座は長田ノオトにゆずるべきではないか?長田ノオトの凄いところは(と言いつつ、この人の漫画は何一つ読んだことはないのだが)、『パノラマ島奇談』『屋根裏の散歩者』『押絵と旅する男』『盲獣』、また単行本化はされてないそうだが『孤島の鬼』の漫画も描き、さらに特筆すべきはこの中に三本も長編があるということである。ここまで乱歩に取り憑かれた漫画家が他にいるか?!
確かに丸尾末広も乱歩に取り憑かれた漫画家の一人である。エッセイや対談などでの乱歩発言は多く、随所に現れる一寸法師嗜好もその一端だろうし、『芋虫』『屋根裏の散歩者』『押絵と旅する男』『少年探偵団』『黄金豹』「平井太郎」などを題材にして絵も描いた。漫画の登場人物には乱歩関係の本を読ませた。近年では丸尾イラストから「人間豹と少年探偵団」と題されたフィギア*3まで作られた。しかしこうして丸尾が描いた乱歩を列記してふと思うことは、語弊を恐れずに言うならば、”まともなものがほとんどない”ということである。というのは、イラストレーターではなく、ましてや決して芸術家でもない、一漫画家であるはずの丸尾末広が描いた乱歩漫画が『芋虫』と『屋根裏の散歩者』だけというのは一体どういうことだ(他はすべて一枚絵である)。しかもそのどちらもが超短編で、確かに『芋虫』の翻案である「腐ッタ夜 エディプスの黒い鳥」は不具者の唯一物言う器官である目をペニスに換骨奪胎した素晴らしい漫画であったが*4、『屋根裏の散歩者』を題材にした「屋根裏の哲学者」にいたってはほとんど乱歩の名前だけを拝借した粗悪なパロディと言ってもいいだろう。
(『屋根裏の散歩者』からのいただきは他にもスターリン関係のイラストもあるが、しかし丸尾最大の面目躍如は「童貞厠之介」であろう。この丹下左膳遠藤ミチロウヘリオガバルスを掛け合わせた風貌を持つ厠之介は赤子の頃に母親に便所に捨てられて以来、糞壺を下水道を住処にしている少年で(そこには沼正三も生息しているのだ)、露骨に『屋根裏の散歩者』を出してはいないが、その影響は明らか。非日常的な闇を這い回り下界(上界?)を覗き見るいう点では同様で、ただ屋根裏と便所の床下というだけの違いなのである。ちなみに大槻ケンヂとの対談で丸尾末広田中登の『屋根裏の散歩者』を観ていることを告白している)
以上のような意味からも新連載の「パノラマ島綺譚」はいままでになかった試みであり、丸尾末広初の長編乱歩漫画になる公算が高い。先行した乱歩=丸尾のイメージに追いつき追い越せるかがこの新連載の見所のひとつであるが、まあ個人的には1984年がピークだと思っているので少し遅すぎたなという感も否めなくもないのだが、まあそれでも丸尾末広江戸川乱歩の長編漫画を描くだけで意義がある。
「腐ッタ夜 エディプスの黒い鳥」のみで、世間的に乱歩漫画の第一人者と見られた感がある丸尾末広である。今回の「パノラマ島綺譚」でもただ単純に小説のストーリーを追うばかりでなく、過去の漫画同様に大胆な翻案、換骨奪胎を試みてくるかも焦点のひとつ。そういう意味で、映画で乱歩原作ものの頂点に登りつめたのが石井輝男の『江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間』で、これは”全集”と銘打たれてる通り『パノラマ島奇談』と『孤島の鬼』を太い軸として、『屋根裏の散歩者』や『人間椅子』といった他の乱歩作品が全編にちりばめられている映画であるが、僕の予想、いや希望だと、丸尾末広はむしろ『恐怖奇形人間』の方を原作にして漫画を描くべきではないのか。というのは、なによりもまず『パノラマ島奇談』と『孤島の鬼』の組み合わせが正しい。乱歩と同様に、丸尾末広も侏儒をはじめとするフリークス嗜好に取り憑かれた人物であること言うにまたないが、丸尾漫画にいままで欠落していたものは外科手術などによって造られる、マッドサイエンティックな”人工的”なフリークスである。例えば『芋虫』などは戦争によって手足がなくなったので後天的と言えなくもないがそこに”人体改造”という概念はない。性愛玩具としてわざわざ箱櫃児(箱に入れて造る小人)などのフリークスを造った、また獣と人間を外科手術でくっつけて半人半獣の怪物を造ることに執着した中国貴族の人工的奇形趣味を思い出してみよう、沼正三家畜人ヤプー』を思い出してみよう、鈴木則文『エロ将軍と二十一人の愛妾』のパンタを思い出してみよう、犬のペニスを人間に移植した大和屋竺の『発禁 肉蒲団』を思い出してみよう、人間はもう一つ二つ手足を持つべきだと唱えた長嶺高文の『ヘリウッド』を思い出してみよう、人間と植物を合成して新人類たる植物人間を造った『悪魔の植物人間』を思い出してみよう、これらに匹敵する観念を有したのが人工的奇形アイランドを造ることを夢想した乱歩の(または土方巽の!)『孤島の鬼』であって、この乱歩の真骨頂とも言える倒錯した人工美(!)、これが同じフリークスものでも『芋虫』より『孤島の鬼』の方にカルトなファンがついている理由だと思うのだがどうだろう。
1991年6月号の『ガロ』で丸尾末広大槻ケンヂが対談をしているが、このとき両者とも『恐怖奇形人間』を観たことがなく”観たいなぁー”なんて言っていたが、オーケンの方は後に『オーケンの、私はヘンな映画を観た!』(2004年発行)の中でこの映画について少し触れていたと記憶するので、まあ観たのだろう。一方、丸尾末広はどうかと言うと、実はここの記憶が曖昧なのである。なにかで『恐怖奇形人間』のこと、石井輝男のこと、『パノラマ島奇談』のこと、そんな話をしていた気もするのだが、それをどこでやったかさっぱり思い出せないので、正直今も現実だか夢だかよくわからない(うつし世は夢、夜の夢こそまこと)。しかし丸尾末広が『恐怖奇形人間』を”観たことない”と言ってから15年以上経っているのだ、”なによりも映画を愛す”と言った丸尾末広だ、さすがに今は観てると思うし、またそれに多大に感化され、”丸尾末広復活!!”を高からかに宣言できるような倒錯(盗作)した人工美をテーマに素晴らしい漫画を描いてくれること、一ファンとして密かに願っている、いや正確には、いたが、連載二回目を読んで…。

左:「人間豹と少年探偵団」原画(画:丸尾末広)/中:黄金豹・怪人二十面相(画:柳瀬茂ポプラ社少年探偵団シリーズ)/右:人間豹・恩田(画:岩井泰三/ポプラ社少年探偵団シリーズ)

*1:きんたまのにぎりかた−”きんたまのにぎりかた”は”たまには”の枕言葉。というのはつまらない駄洒落で、丸尾末広『夢のQ-SAKU』に収録された漫画のタイトル(正確には「きん玉のにぎり方」)。つい先日、平岡正明澁澤龍彦の侠 雑誌『血と薔薇』のその後」を読んでいて気がつく。「きん玉のにぎり方」のタイトルは、平岡正明『韃靼人ふうのきんたまのにぎりかた』(1980)からのパクリだったのね。平岡正明と言えば、澁澤龍彦責任編集を銘打った『血と薔薇』の第四号の編集者であるが、”澁澤が辞めるなら俺も辞める”と第三号までの執筆者にことごとく総スカンを喰らい、誰も書いてくれないので、仕方がないから自分の著書『韃靼人ふうのきんたまのにぎりかた』から一部を抜き出して掲載した云々書いていたのを読んで、もう間違いないなと。公式HP「丸尾地獄」の丸尾末広の本棚を紹介するコーナーでしっかり『血と薔薇』第四号を持ってることアッピールしている丸尾センセーである。にしても、澁澤編集とは違ったカラーの雑誌を作ろうと一時は『毒血と薔薇』という雑誌タイトルが決まったらしいが、それはやっぱりダメと言われてしまったらしい。目次見ると足立正生とか佐藤重臣が執筆してたりしてホヘーとな。

*2:スエヒリスム−今世紀初頭に起きたマルオ革新運動。主流派意見であるマルオ=エログロ論を否定し、あくまでマルオの対象との硬質的な距離感、オブジェクティヴな精神に光りを当てた。「スエヒロ」とは遠心的に拡がって行く事の意であり、転じて、あらゆる対象に向かって発展的にリンクしていく事を指す。

*3:フィギア題は「人間豹と少年探偵団」であるが、厳密に言えば”黄金豹”が正しいだろう。江戸川乱歩『人間豹』に登場するのは、ドス黒く骨ばった顔、青く光る目、大きな口、敏捷に動く猫族の舌を持った、あくまで”人間の形”をした人間豹・恩田であり、一方『黄金豹』は怪人二十面相が”豹”の皮をかぶって化けた姿なのである。ただ黄金豹は宝石やお金しか盗まないので、丸尾の絵には女ばかりを誘拐する人間豹の要素も混じっているかも知れない。

*4:「腐ッタ夜 エディプスの黒い鳥」−乱歩『芋虫』の翻案。どちらにも両手両足を根元から切断された、腹部ばかりがはち切れそうに膨れ上がった、大きな黄色の芋虫のようなフリークスが登場する。「父のそこは五体の機能を失った分だけ充実して饒舌な意思表示をしてくるのです」と乱歩は書いたが、乱歩の場合のそことは目のことで、丸尾はペニスにした。目とペニスの違いこそあれ、二人とも最後にはフリークスの大事な意思表示の器官を潰して、または噛み切って終わりにする。ちなみにペニスの隠語には、”一つ目小僧””一つ目入道””目無坊””blind Bob(一つ目小僧)”など、目と関係がある語も多い(『モンスターズインク』一つ目のマイクはチンポコ)。ようは同じことなのである。”芋虫”と呼ばれる手足のないフリークスとペニスの関係性についてはまた本文以上に長くなるので割愛する。 副題の”エディプス”とは父親を殺し、母親と結婚したギリシャ神話中の人物名で、よく巷間に聞くところの”エディプス・コンプレックス”とは、この男にちなんだ名称。異性の親への性的愛着を指すわけだが、乱歩の場合は夫婦、丸尾の場合は親子であった。副題は近親相姦的な性格を表す。ついでに言えば、ここでの”黒い鳥”とは”父親の男根”のことだと思われる。フロイトの『レオナルド・ダ・ヴィンチの幼年期のある思い出』によれば、”鳥”は”ペニス”の象徴であるという。そういえば日本では”雁”などと言ったか(またペニスの対応であるクリトリスにも”雛”や”鶏”などがつく語があるのも面白い)、米国では”cop a bird”で”フェラチオをする”、”choke the chicken”で”オナニーをする”、伊国なぞではそのまま”鳥(l'uccello)”で”ペニス”の意味。さらに言えば、鳥の”尾”はさまざまな国で男根象徴の一つとして周知されており、古代人はペニスを羽根のはえたものとして描き、赤ん坊を運んでくるのは大きな鳥だという寓話などなど、フロイトによっちゃ”鳥の尾”と”フェラチオ”の関係性まで研究する始末。丸尾漫画では娘が父親のモノを口にふくんでおりましたがね。