ザッツパーフェクト!血に濡れたロードを走れ!〜『徳川女刑罰絵巻 牛裂きの刑』

牧口雄二監督の『徳川女刑罰絵巻 牛裂きの刑』を観る。
この映画は、江戸という封建時代の極悪奉行・汐路章が大活躍する話に次いで、後半はその逆、時代の弱者・川谷拓三や女郎を主人公とする話の、合わせて二つのエピソードからなるオムニバス映画。



映画の順序とは逆になるが、まずは拓ボン編から。


”こんな身なりやけど、わいはボンボンやさけ、金持っとんのや、おお、みんなどんどん飲め!”と、大尽遊びをする拓ボン、でもほんとはお金なんか持っていない、夜が明ける前にトンズラかまそうとしていたが、つい朝まで寝てしまって…、女郎屋の連中にボコボコにされる拓ボン、ここで働いてお金を返しますと下働きをするが、いろいろ事件あり、野口貴史のチンコを切り落とす役目などさせられて、いつまでもこんな地獄にいたらとんでもないことになると、その家の女郎・橘麻紀を連れ出して脱走、その道中、橘をレイプした非人どもを棒で撲殺したことをきっかけに、二人は窃盗、詐欺、美人局など犯罪を重ねながら江戸を目指すロードムービー拓ボン&麻紀を主人公にすえた”ボニー&クライド”のパロディ?

この手の匂いを感じさせる映画では牧口雄二は『毒婦お伝と首斬り浅』というのも撮っていて、こちらは男女(東てる美・槙健太郎)が逃避行をするうちに仲間に加え四人組となり、銀行を襲撃しようとしたり、交番より銃器を奪って、政府の現金輸送車を襲って、ガンガン人を撃ち殺して行ったりと、同じようでも、やはり拓ボン&麻紀はどこか間が抜けている(といっても、実は『牛裂きの刑』の場合は、逃避行の部分に重点を置いていないので、ほとんどその道中で事件は起こらないのだけど)。


それはともかく、『牛裂きの刑』ではその拷問の残酷さだけがテーマなのであって、例えば、捕まった拓ボンと麻紀が、”捨やん(拓ボン)と一緒でよかった”とか、”あの世へ行っても仲良くしたってや…”という台詞を吐くように、独りでは生きて行けない拓ボンと麻紀のお互いを必要とする機微(恋情?)にはほんのり感動すら覚えるが、汐路編での風戸佑介と内村レナの恋情は、汐路章の悪逆非道、残酷ぶりを強調するためだけの添え物にすぎず、彼らの愛情などは実際どうでもいいのである。

拓ボン編で、拓ボンと麻紀の素晴らしいドラマを見せつつも、やはり売りの残酷描写は挿入して行かなければならない。それが拓ボンによる野口貴史のチン切りであり、のちに白痴となった野口貴史による拓ボンのクビ切りなのだ。白痴が現れたとき、とっさに牧口雄二『玉割り人ゆき』での拓ボンのチン切りシーンを思い出し、まさか?!と思いましたが、白痴が切ったものは…、とりあえずここでの白痴・野口貴史の狂いっぷりは、この年の助演男優賞を余裕で受賞できるほどのものでした(ほんとか?)。グッジョブ!


最後に、拓ボンと麻紀、二人揃って晒し首になってたが、麻紀は女なのでまだ使い道があると命を助けられる、そしてその場所に一人残され、麻紀を見送るときの”やっぱりこんなもんやろな…”と呆然と泣き笑いでつぶやく拓ボンのあの寂しそうな悲しそうな表情、ほんと『特出しヒモ天国』のときでもやっぱり”そんなもん”だったもんね。拓ボン、ファイト…。



続いて汐路編。


長崎奉行汐路章隠れキリシタンの弾圧に尽力をそそいでいます。というのは建前で、単に自分の残虐嗜好を満足させるためだけに、次々と人間を拷問にかけ殺して行きます。”もうこの拷問には飽きた、もっとわしを楽しませるような拷問はないのか”みたいなことを言う汐路、”ひとおもいに死なせてはならんぞ、ニチャニチャとな”という注文も決して忘れません、その悪逆非道はますますエスカレートして行きます。いろいろな拷問を見世物的に観客に見せた後、クライマックスに行われるのが、タイトルにもなっている”牛裂きの刑”です。女の両足首に綱をつけ、その綱の反対には牛、牛を走らせ股を裂かせる死刑です。牛に引っ張られた足は付け根から取れ、血の噴射とともに下腹部からは内蔵がドロドロドロと流れ出して来る、そして、”やった!裂けた!”と、涎を垂らしながら、目を爛々と輝かせガッツポーズする汐路章…。


僕は『不知火検校』の勝新太郎が、他の悪者に比べて、金や出世、目的のためなら人殺しすることにちっとも葛藤がないところが極悪だなぁと思ってたんですが、『牛裂きの刑』の汐路は勝新を余裕で超えました。まず汐路には金や出世という目的さえない。結果的には邪宗徒取締りの功績を認められ大名に出世するが(全くもって救われない話だ!)、それは単に後からついてくるもんであって、汐路は取締まりという名を借りて、自らのグロテスク嗜好のために、血や内臓が飛び散る残酷拷問を、ただ楽しんでいただけにすぎない。汐路の目的はただ一つ、絶対的な権力を傘に、逆らえぬ弱者を徹底的に嗜虐する拷問と殺人のみ。またそれだけ悪逆の限りを尽くしても、勝新みたいに最後その報いを受けもせず、さらに巨大な権力を手に入れるとこも、もう言葉にならない素晴らしさ。


また『牛裂きの刑』の海外タイトルは『SHOGUN'S SADISM』ときたもんだ。すると、パゾリーニの『ソドムの市』や神代辰巳の『女地獄 森は濡れた』など思い出すけれど、なるほど、例えば彼らにとって”殺人が最大の快楽”であることは一緒であるとしても、汐路の唯一違うとこは、サド作中の悪人たちのように自分の思想を饒舌に他人に語ることが一切ないこと。その語られる思想を、人殺しをするための言い訳、詭弁というのは言い過ぎかも知れないが、しかし人を殺すのにそんな屁理屈のような言葉はいらないのである。行為のみあればいいのである。その点、何も語らず、ただただ弱者を如何に残酷に殺すかのみを追求する汐路の方が突き抜けていると僕は思うし、またニチャニチャとした内臓的なグロテスクさにおいては、上述の映画のどれよりも汐路の方が勝っているのである。


そういう意味で、この『牛裂きの刑』の拓ボン編がロードムービー(ROAD MOVIE)として佳作ならば、汐路編はロードムービー(LORD MOVIE)の大傑作であると言わねばならないだろう。



※  ”lord”とは、『ロード・オブ・ザ・リング』の”ロード”ですね。観てないですけど、ここでは”王”と訳されるのでしょうか。また『眼球譚』という小説がありますが、その著者はロード・オーシュ。ここでの”ロード”は”神”という意味。ちなみに”オーシュ”は、仏語”オー・シュオット(便所に失せろ!)”の略で、つまり”排便する神”、バタイユの死後に実名で出版されるまで、『眼球譚』の全ての版はこの匿名を踏襲しました。また”封建君主、藩主、支配者”という意味もあり、それを踏まえると海外タイトルの”Shogun”と”Lord”は同義も同義。