家族の肖像〜『細雪』 『幸福』

8月1日、新文芸坐市川崑の『細雪』と『幸福』を観に行った。どちらも未見、奇しくもどちらも家族ものだった。

細雪』は吉永小百合がどうにもこうにも苦手なのでまーったく期待しないで観たのが、それに反して映画は面白かった。何がどう面白いかと問われると答えに窮するけれど、僕には珍しく2時間半ぐらいある映画を居眠りもせずに観られたんだからまあ面白かったに違いない。かいつまんで言うと大阪に住む四人姉妹とその周辺の人々の物語。劇中の本家とか分家とか、法要を略式にするのはどうとかこうとかいうところに我が身を考える。本家分家というのは本当にめんどくさいものと身にしみていて、映画の中のことながら気分が滅入った。また数ヶ月後に迫る父親の一周忌法要のことを思い出し、そろそろ寺に予約入れたり、親戚に連絡したりせにゃならんなぁ…と考えただけでもうめんどくさい。坊主のお経料10万を含めてざっと計算しても諸々20万はかかるので今からうんざり。

『幸福』は刑事ものという先入観を持って観たのだけど、犯人との息詰まるようなサスペンスは皆無で、最後に取って付けたような逮捕劇があるだけ、蓋を開けてみればテーマは「家族」だった。奥さんが家出しちゃった水谷豊と幼い子供たちの家族、市原悦子と近親相姦しちゃった兄と妹の家族、浜村純と殺されちゃった娘の家族。それは真っ直ぐだったり(水谷家)歪んでいたり(市原家)するけれど、しかしそのどれもが「親子愛」や「兄弟愛」に違いなく、絆の形は家族によっていろいろなのだと知る。その中で特に面白いのが浜村純で、妻の草笛光子はとっくに家を出て行ったし、娘の中原理恵は死んでしまった、そこで独りぼっちになってしまった浜村は何度も娘の恋人であった永島敏行のもとに訪れ、一緒に住むこと、すなわち(一緒に住むことを拒絶する)永島と疑似家族の関係になることを望む行動に出るのだ。浜村がそこまで家族にこだわる理由はなんなのか。疑似家族という点のみで『家族の肖像』のバート・ランカスターヘルムート・バーガーをふと想起したが、浜村と永島に男色関係の匂いは感じられない。また親子兄弟関係はともかく、いくら夫婦といえども恋人といえども結局は赤の他人、水谷とその妻や、特に永島と中原のわかりあえない断絶がこの映画唯一のミステリー、「闇」を呼ぶ。謎は解かれるまでが面白く、もっと言えば謎は謎のままが一番面白い。