ホタテマン(コ)を舐めるなよ!


 去年と今年の金沢映画祭や、シネマヴェーラ渋谷での特集上映など、ここ数年の鈴木則文の持ち上げられ方、人気には少しキチガイじみたものを感じる。というのは、その人々の熱狂を尻目に自分はそのどちらにも全く行けなかったという僻みも多分にあるのだけれど、まあ、ノリブミスト失格の僕の世迷い言などはどうでもよくて、本日発売の『HOTWAX』最新号の話、どうやら鈴木則文の特集が組まれているようで、掛札昌裕のインタビューもあるみたいなので、これは一応チェックしとかにゃいかんなぁ、と。嗚呼、表紙は『温泉みみず芸者』の池玲子だ。

 『温泉みみず芸者』と言えば、ずっと探しているゲームがあるんだが、その方面に詳しい友人に依頼してもなかなか手に入らない。それは「温泉みみず芸者」という1983年に発売されたFM7(?)用のパソゲーで、あの有名なエニックスの「東京ナンパストリート」よりも二年も早くリリースされていたアダルト・アドベンチャーである。
 ようは我々は”竿師段平”となり、適切な選択肢を選んでいき、山城新伍風に言うならば、相手の女とのチョメチョメを目指すゲームで、おそらく「ときめきメモリアル」等の恋愛シミュレーションゲームのはしりなのだと思われる(ホントかよ?)
 このゲーム「温泉みみず芸者」は『東映ピンキー・バイオレンス浪漫アルバム』なる本にも少ーしだけ紹介されていて、僕が最もその世界に触れてみたい眷恋の仮想世界なのである。
 しかし、そのゲーム画像を見ると、0%の貝の閉じ方とかウケるんだが、それ以上にその貝がホタテ貝であることにハッと気づいてしまったので、今日の日記はその貝について徒然なるままに戯れ言を弄す。

 まず「貝」が「女性器」のシンボルとされることは世界各地に通じておこなわれてきた事実である。
 例えば、料理クラムチャウダーの「clam」とは、ハマグリやアサリなど二枚貝のことであるが、この俗語に「女陰」の意味があるのは言うまでもない。
 このように英語では「クラム」と二枚貝の一語で、ただ「女陰」を指すだけなのに対し、「古今わが国で行われてきた陰名異称の類は実に一千余種が数えられた」(『江戸秘語辞典』中野栄三)というわが国ニッポンでは、同じ二枚貝でも、例えば、蜆、蛤、赤貝、(また洞貝)では、もうそれの持つ意味合いが全く違うのである。つまりこれらは一語で”年齢的経過”をも表しているのだ。
 「蜆」は少女陰、「蛤」は若い女陰(もしくは嫁の女陰)、「赤貝」は年増陰、こう来ると「洞貝」などはもう言わずもがな、婆のがばまんこのことである。
 他にも情事語・風俗語で、片思いの「あわび貝」、安産多産の「子安貝」、そのまんまの「汐吹貝」、色黒の女陰(?)のことなのだろうか「からす貝」なども使われたようで、「夜蛤」といえば夜鷹のこと、「合貝屋」といえば私娼家のことを指した。
 さあここで”あれ?”っと思うのは、前述の『江戸秘語辞典』を信じるならば、「帆立貝」が隠語として江戸の川柳に全く詠まれていないことである。まあ、武田久美子はともかくとしても、ボッティチェリの『ヴィーナスの誕生』を見ても、帆立貝に女陰の意味が含まれいてもおかしくはない、というか含まれているはずなのであるが。

 それにしても、帆立貝というのはなんとも恐ろしそうな貝ではないか?
 女神様が御出現なさった時に乗っていた、また女神様のあそこをイメージさせるので畏れ多い、という意味ではなく、ただ単に”見た目”がである。
 僕は、帆立貝に”歯のあるヴァギナ”幻想を見てとるのだ。
 するとホタテマンコは、女神様然り、武田久美子然り、『温泉みみず芸者』の初栄然り、それはもう完全に恐怖の対象となり、「ホタテを舐めるなよ」と安岡力也に言われるまでもなく、舐めないし、ナメれない!のである。
 しかし、恐怖と恍惚とは盾の両面であり、畏れるが故に人はそれへと過度に引きつけられる、というのはあることだと思う。大体にして「帆立」というネーミングである。「帆柱」と言えば”男根”の異名であり、すると帆を立たせる貝というのは、男を官能でもって極度に身悶えさすほどの魅力を兼ね備えた貝であるとも言えよう。
 さらに言うならば、帆立貝のもつ両性具有性や神性である。帆立貝は他の貝と比べて、貝柱がブッ太く立派なのが特徴でなかったか。
 なんだか話しが飛んできたが、とにかく帆立貝が、江戸庶民の風俗ではいっかな使われず、神話的な世界でエロスの象徴として、人々に畏怖と恍惚の念を起こさせただろうことは、まったくもって興味深いとしか言いようがない。
 そういう意味で、パソゲー「温泉みみず芸者」は物凄いのである。

 余話であるが、英俗語でも、江戸秘語でも「女陰」は「二枚貝」に限られるようである(他の言語は知らない)。
 すると、ここでふと思い出されるのが、20世紀の精神分析学者C・G・ユングの「螺旋は子宮の象徴である」という言葉ではあるまいか。
 ようするに何が言いたいのかというと、「巻き貝」も20世紀以降「女陰」のシンボルになったのではないかということだ。
 いや、言い過ぎた。20世紀以前にも「螺旋=胎内」的な絵画や建築は多数あるし、人々もその意味をわかっていたと思う。絵画などに現れた「巻き貝」にユートピア思想(逆も然り)、子宮回帰を読み取ることは簡単だ。
 ここからは現代ニッポンに限って話しを進めさせてもらうが、僕は官能小説を読まなければ、他の文学や芸術関係にも詳しくない。ようするに無学なわけで間違っていたらごめんなさいと謝るしかないのだが、例えば、「巻き貝」を「女陰」の象徴として、文章であれ、美術であれ、何かでそれを表現した人はいるだろうか?
 僕の独断的な所見では、やはり今でも「女陰」といえば開閉式の「二枚貝」が主流であり、いっかな螺旋形の「巻き貝」を象徴として使ってくる向きがないように思われるのだが如何なものか。
 いや、僕が知る限り、ただ一人を除いては、だ。”螺旋感覚の男”とでも言いたくなるようなその人物とは誰あろう。
 そう、石井輝男である。
 『徳川いれずみ師 責め地獄』の、まるで”栄螺堂”を想起させる螺旋構造で立体的な舞台装置を見よ!しかも、そこは逆ユートピア的な”女郎屋”なのである!石井輝男のこの螺旋感覚、もう天才としか言わざるを得まい!

 と言いたいところではあるが、上の文章には流れ的に間違いを見て見ぬふりしているところがある。いくらテキトーな極私的戯れ言とはいえ、それを指摘しておかないのはあまりに不親切かなとも思うので言うと、英俗語はともかく、少なくとも江戸秘語では「女陰」は「二枚貝」に限られて”いない”。婆のがばまんこを指す「洞貝」はもろ「巻き貝」。ただ、生理もとっくにあがっちまった婆さんのまんこってどうなんだ…という疑問。また「あわび貝」も一枚貝に見えるところから、片思いの女陰とされたが、実際はあわびも「巻き貝」の仲間である。

 また、一つ思い出したが、澁澤龍彦『高丘親王航海記』の中の一篇「蘭房」も、「巻き貝」を「女陰」のシンボルとしていた。ここでの左巻きの「ほら貝」は、蘭房と呼ばれる”後宮”へ入場するための手形になっている。しかも、その奥の院・蘭房へと到るまでの道程がこれまた”迷宮的”なのは素晴らしいイメージだが、ただここでの「ほら貝」には江戸秘語で言うところの年齢的経過の意味合いは付与されてはいまい。