イメージフォーラムで観た金井勝『王国』の思い出

以前、同伴したガールに”クロノス王は女にした方がよかったんじゃないか”と切り出したことがある。むささび童子が最後に何を盗み取るかは具体的にしないとしても、もしもそれなら「子宮」であることは間違いないわけで。
むささび童子が鴨の肛門、襞に覆われた狭い狭いトンネルに侵入するシーン、すぐさま金井勝の『無人列島』が想起されるわけだが、ここでも日出国(串田和美)は尼さんのヴァギーに頭から突っ込んでやっぱり狭いヒダヒダを這い進んで行く、その時に発せられる日出国の叫びは、声にならない”おかーさーん!”、声になった”かあちゃーん!”、つまり日出国はここで産道を逆戻りし「子宮回帰」を果たしたのだ。
では、『王国』のむささび童子はどうか。彼が這い進んだのは人間のヴァギーではなく、あくまで鴨のアナルであって、一見「子宮回帰」とは関係ないように見えるけれど、これに限っては肛門・直腸も産道なのだ。『王国』は鳥類のドキュメンタリーでもあって、映画において鳥類が重要な位置を占めているが、その鳥類はよくよく考えてみれば単孔生物なのだ、交尾も排卵も肛門からなされるのだ。
むささび童子が産道を通って行き着いた先は、時間を司るクロノス王の王国ガラパゴス、つまりガラパゴスは子宮とも言え、すると子宮はクロノスの王国。子宮内で動物たちと戯れるむささび童子のなんと楽しく幸せそうなことか。まるで一匹の精虫にでもなったかのごとくむささび童子の爬虫類との交歓交合。
しかしそんな幸福な時間も途中から悪夢に変わっていくのか。夢野久作が『ドグラ・マグラ』で書いていたけれど、胎児は母の胎内にいる十ヶ月の間に一つの、数億年ないし数百億年の夢を見る。それは単細胞時代から現在にまでいたる一種の悪夢でもあるが、そんな夢を見させる胎内とは何だ。時間が凝縮されている場所、時間そのものと言い換えてもいいのではないか。それならばやはりクロノスの王国であり、もしも「子宮=クロノス(時間)」の図式が成立するならば、鳥博士役に大和屋竺をキャスティングしたことも凄い偶然の一致というか、ひどく興味深い。
例えば、大和屋竺の『裏切りの季節』とか『荒野のダッチワイフ』とか、『野良猫ロック セックスハンター』とか『大人のオモチャ ダッチワイフレポート』などに特に顕著だけれど、大和屋竺の「女性憎悪」というのは徹底的な「子宮憎悪」に変換されるわけで、するとマックス・テシエなんかは、『王国』の大和屋竺を「鳥類学者の著しく”邪悪な”人物」などと言ってて、「邪悪」ってのはこれはすげえ面白いぞと。言うまでもなく『王国』の中で大和屋竺は執拗にクロノスをぶっ殺すことをたくらみ、それしか妄執してないキ印なわけだが、ここで大和屋竺の「子宮憎悪」と繋がってしまう、偶然にも。
劇中の「人もまた時のオモチャ」ってフレーズ、結局世界を支配してるのは子宮という新たな神話なのでしょうか。子宮に戦いを挑んだ連中は大和屋竺をはじめ皆(クロノス王に取って代わったむささび童子以外)、子宮に焼き滅ぼされるという一事をもっても、それはうかがえるのかも知れない。
子宮に敗北する例なんかは、大和屋竺『裏切りの季節』など顕著なのではないか。それは子宮憎悪の権化ともいえた主人公である立川雄三の、谷口朱里をさんざん虐待したあげくの、「今こそまさにおまえを愛している」という一台詞、これは子宮に対しての敗北宣言である。その証拠には、結局最後谷口朱里は勝ち誇った笑みを浮かべ、逆に立川雄三は恐怖におののき、死へと繋がるのだ。
あのとき同伴したガールは僕とは逆に”クロノス王は男であるべきだ”と主張していた。
まず『王国』で全篇に渡ってつきまとう八咫烏の旗。それとラストの宇宙に浮かんだ九つの顔がポイントだと言う。
第一に、八咫烏は太陽の象徴である。
第二に、九つの顔とは『無人列島』の串田和美、『GOOD-BYE』の金井勝、『王国』のむささび童子、あとストッキングをかぶっていて顔がわからない六人であるが、これらは何かの神話(忘れた…)より九つの太陽を象徴しているのだそう。すると、むささび童子も太陽であり、最後にむささび童子はクロノスになったので、クロノスは太陽って図式。何かの太陽信仰の宗教(忘れた…)では、「臀部を神聖な肉体の部分としていて、その中心に位置する肛門は大地からの神託を媒介する大切な部分であった」とのこと。他にも何か言っていたが、ちょっと僕にはわからなかったので、いちおう納得したものだけメモ的に書いた。僕は子宮回帰を軸にしたが、ガールは太陽を軸にしてるので「太陽・肛門・鳥類」のつじつまが合う。鳥類は肛門至上主義にはもってこいな動物ではある。ただ肛門に入ってクロノスの王国に行ったのがまたこんがらがるけれど。
『王国』を最後に観たのがもう4年前のことで、実際のところもう一度でも二度でも観た方がいいには決まっているのだ。
しかし…

「そもそも鳥類は、いまから一億五千年まえ、爬虫類から分かれたアルケオプテリクス、つまり始祖鳥、その誕生をもってして、鳥類の起源としています―
「しかしこのアルケオプテリクス、けっして現在の鳥類のような見事な羽ばたきをしたわけではないのでして―

というような大和屋竺の怪演と延々4ページの長台詞、あと佐藤重臣のホイホイだけで、私的には十分観るに足りたのであった。
大和屋竺のヒゲは日活技髪部から借りた付け髭で、科学博物館内のシーンは全てアッという間の盗み撮りだそうだ。

 極私的memo〜『エル・スール』 『皮ジャン反抗族』 「映画監督・大島渚」 「WE ARE THE PINK SCHOOL!」 「土方巽舞踏映像」 『薔薇の葬列』 『王国』

ユーロスペースビクトル・エリセ『エル・スール』を観る。まあ冒頭から最後まで全編、また朝も昼も真夜中だってそうなのだが、窓や扉から部屋に差し込む自然光によってのみ極力作られる何とも言えぬ絶妙な色合い、太陽の運行と共に移り変わって行く表情豊かな陰影、それに伴い変化する構図、そして寒い北の地方の青みがかったような空気感(光)、それらの美しさに触れるたび、自然と漏れるため息をどうすることもできないのと同時に、僕は中学生のときに好きだった女の子のことをふと思い出した。しばらくぶりに逢ったその子は画家になっていて、彼女曰く、蛍光灯の下だと色がわからないから、彼女は決まって朝から昼間にかけて部屋の中が自然光で溢れている時間帯にだけ絵を描くのだと、そんなことをなんとなしに。『エル・スール』は開巻の夜明け前の部屋のシーン(しびれた)からそうだが、「光」の表情を観ているだけでも全く飽きない映画であった。
映画の内容はどうかというと、つまるところ『ミツバチのささやき』のヴァリエ違いと言っていいのではないか。これらについては後日書くとして、とりあえずキーワードのみ、『ミツバチのささやき』でアナの唯一の心の拠り所になったフランケンシュタインの怪物(精霊)は何故父親の顔であったのか、『エル・スール』でエストレリャはまるで宇能鴻一郎かのように語る、少女時代の母親の想い出はほとんどないと、母とは逆に彼女が心酔している(近親相姦の含みさえする)父親は−アナの場合ならばフランケンシュタインの怪物と言ってもいいが−魔術師であり、少女の成長と共に父の魔力は(マッチの火さえ自分で点けられないほど)衰えて行く。精霊や魔法は子供にしか感じられないし、子供が大人になるとき(例えば現実を知ることであったり、恋人ができることであったり)彼らは当然死なねばならない。また父こそ輪廻転生したアナであるとも言えるかも知れない。父の場合の拠り所は『フランケンシュタイン』ではなく『日陰の花』の主演女優イレーネ・リオスであり、交信の末に父は…。同時に父は『ミツバチのささやき』では沈黙していた大人たちの饒舌な代弁者でもある。
エストレリャが母親に「その本面白い?」と聴いたとき、母親は「素敵よ」と答えた。僕も何か聴かれたら今度からこう答えよう。
そして「愛している」と壁に落書きするならば、冒頭は五芒星ではなく六芒星にするべきだ。



いまのところ『生贄の女たち』しか観に行ってないシネマヴェーラで開催中の東映セントラルフィルムの栄光」だが、松田優作の主要な有名作群は放っておいても、長谷部安春&おちんぽたちひろしの『皮ジャン反抗族』だけは絶対行かねばならない。なにを隠そうこの映画が大好きなので、”こんな映画のどこがいーの?”と皆からコケにされても全然気にしない。この映画は血が騒ぐ。一応ビデオ化はされているが(たぶんDVDにはなってない気がする)、スタンダードサイズにトリミングされていて残念な出来、もちろん劇場では本来のワイドサイズでかかるはずなので、これは行った方がいい。だって噴水デスコとか観たいじゃん!ワルノリスト(林ゆたか)になってフィーバーしようぜ!!!!
『皮ジャン反抗族』2/23・25上映@シネマヴェーラ渋谷



次回シネマヴェーラ紀伊国屋書店レーベルを讃える」のチラシを貰う。フィルムだと思ったらDVD上映多し。でもでもでもでも…おちんぽシャブローの『女鹿』 『不貞の女』 『肉屋』観られるだけでいいや!
旅芸人の記録も楽しみ。1920年代のやつは案外観てるな。2/28より。



法政のスコリモフスキってAとかBとかCとかDってタイトルをちゃんと明記してくれないから親切心が足りない。2/20〜22開催。



川崎市市民ミュージアムで開催される「映画監督・大島渚は忘れず行くこと。
2/21…『ごぜ盲目の女旅芸人』 『裸の時代 ポルノ映画・愛のコリーダ
2/22…『伝記 毛沢東』 『ユンボギの日記』
2/28…『忘れられた皇軍』 『ある国鉄乗務員−スト中止前夜−』
3/01…『反骨の砦』 『青春の碑』

及び

「恵比寿映像祭」会期2/20〜3/1。
2/22…大島渚『20世紀アワー:大東亜戦争


大島渚といえば、渋谷の映画ショップで500円で買った『太陽の墓場』の英語版ポスター。まあ炎加世子『夕陽に赤い俺の顔』のヤギを連れた殺し屋がキュートで好きだけど。



渋谷のイメージフォーラムで開催される「WE ARE THE PINK SCHOOL! 日本性愛映画史1965−2008」2/28〜3/20)の注目度が半端じゃないような気がする。Qビルの4階にも3階にもチラシがなくてビビった。受付のお姉さんに言って奥からチラシを出してもらったぐらいだし。
で、全部行くお金もないので、なるべく行かない方向でスケジュルチェックしてるんだが、それでも14回は行きそうな行かなさそうな。
「ピンク創世記1〜6」は6作品すべて観てて、「70年代黄金期7〜12」は6作中3本、「80年代ニューウェーブ13〜22」は10作中3本だけ、それ以降の「四天王と90年代」「ピンク七福神」「大蔵ヌーヴェルバーグ」「ウェルメイド作家たち」にいたっては一本も観たことナシ。とりあえず80年代までの未見作は全部観るつもりだが、これを機会に90年代以降のピンク映画にも手をつけるのもアリなのか。
とりあえずカントクの『特殊三角関係』と、ガイラの『ラビットセックス』、『地獄のローパー』が楽しみだなぁ。
にしてもピンスク、スケジュル表が煩雑すぎて、行く日にちが全然決まらない…。


<ピンスクで上映される大和屋竺映画に触れた過去日記>


『荒野のダッチワイフ』最後に流れる山下洋輔クァルテットが最高!
http://d.hatena.ne.jp/migime/20080810/p1


『濡れ牡丹 五悪人暴行篇』真湖道代のDVDジャケ
http://d.hatena.ne.jp/migime/20070815/p1


『マル秘湯の町 夜のひとで』自作自演ブルフィル活弁監督・吉田純
http://d.hatena.ne.jp/migime/20070906/p1



気づいたら京都の土方巽舞踏フィルム上映会(2/11だったらしい)が終わっていた…。まあ、”そうだ京都に行こう”とはなかなか言えない身分なので、結局現実的ではなかったけれど。資料として上映作品リストをコピペ。
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土方巽記録映像
1.「肉体の叛乱」1968年(14分) 中村宏
2.「疱瘡譚」1972年(4分) 森下隆
3.「疱瘡譚」1972年(30分バージョン) 大内田圭弥
4.「正面の衣裳」1976年(65分)
5.「東北歌舞伎計画」1985年(65分)

◆ドキュメント、劇映画
1.「犠牲」1959年(15分) ドナルド・リチー
2.「風の景色」1976年(冒頭シーン) 大内田圭弥
3.「恐怖奇形人間」1969年(一部) 石井輝男
4.「怪談 昇り竜」1969年(一部) 石井輝男
5.「臍閣下」1970年(一部) 西江孝之

◆舞踏記録映像(DMC 亀村佳宏)
1.「室伏鴻 quick silver」2008年
2.「土の土方と水滴の時間」2008年

◆舞踏譜の舞踏解説映像
1.「土方巽 舞踏譜の舞踏」(日英版)2008年
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超観てえ…。東京でもやらんかなぁ…。ちなみに僕が観たことある土方巽関係の舞踏映像は、『バラ色ダンス』 『あんま』 『ラ・アルヘンチーナ頌』 『疱瘡譚』 『ひとがた』だけ。
『バラ色ダンス』土方巽大野一雄が競演した舞台で、澁澤龍彦が上部に配された横尾忠則によるポスターも有名なやつ。タイトルからもわかるように土方と大野の男色デュエットで、おそらく土方がタチで、大野がネコだと思われる。なのに背中には女性器のペインティング。よくわからないが他にも女性器のイメージ多数。そして彼らはバラはバラでも白いバラ。
『あんま』土方巽大野一雄の競演で、村八分的な大野がダンスを通して、皆に受け入れられて行くストーリー。土方初期の作品で、サイレントってところが初心者にはわかりにくい。音ありの方がわかりやすいかも。
『ラ・アルヘンチーナ頌』土方巽が演出した大野一雄のソロ舞踏。僕も手だけは人にキレイだと誉められるが、それでも大野一雄にはとても勝てない。土方は大野の手を「マルドロールの手」と称したけれど、うんと、すぐに納得。なめらかな流れるような手。大野のダンスはとてもしなやかで優雅。そしてときには磔刑されたキリストのようであり、肋骨と頬骨が浮き上がった生ける骸骨のようでもある。でも結局は妖艶なレディでありガールに落ち着くようだ。
『疱瘡譚』土方巽やら、芦川羊子やら、その他いろいろ出てくる舞踏。なんでも土方の踊りの特徴で斬新だったのは、意図的に肉体を折り曲げ、歪みをもたせたという点らしいが、確かに土方の、ガニ股、短足、それらがなす力強く確かな踏み込み、ねじれ(「世界の舞踏はまず立つところから始まっている。ところがわたくしは立てないところから始めたのである」土方巽)はなにやら呪術的だ。大野一雄が「手」ならば、やはり土方巽は「足」なのだなぁ。嗚呼、京都で『肉体の叛乱』の「三本目の足」観たかった…。
『ひとがた』土方巽振り付けによる芦川羊子(『恐怖奇形人間』の山羊女)のソロ舞踏。



それにしてもピンスクだよ、いっそイメフォの会員になるという暴挙にまで考えが及んだが、あんまり意味ないような気も…。会員になってむりやり松本俊夫でも観てやろうかとも思ったが、もうドグラ・マグラしかやってねえんじゃないの?10年ぐらい前に、髪の毛がおかっぱで、色が蛍光緑のガールとつきあってたときに勧められた『薔薇の葬列』を観るのも半ば強引にセンチメンタリズムを喚起させられて一興ではあったのだが。
「薔薇」が「血」のアナロジーならば、当然「ローズ」は「アナル」の穴ロージー。するとすぐさま「薔薇族」なんていう雑誌を思い出すんだし、”薔薇が咲いた 薔薇が咲いた 真っ赤な薔薇が〜♪”と歌ったマイク真木はいかにも…だし(ド偏見)、薔薇の葬列は男色三角関係、男色近親相姦の話であった。主演は当時16歳とまだまだ初々しいゲイボーイ、ピーター。ぶっちゃけピーターのすっぴんはひどかったが、プリプリしたおしりは可愛らしかった。「我は傷口にして刃 生贄にして刑吏」というボードレール悪の華』の詩句を掲げる『薔薇の葬列』。チラシの詩句の一つ一つがスーパーによって劇中挿入されたかは正直忘れてしまったが、「鏡よ鏡 この世で一番美しいのは誰?」はグリム、「するとあなたは人類を愛しておられませんな」「さよう憎んでいます」はD.A.F.サド、「太陽 切られた首」はギヨーム・アポリネール、「個人の精神は相継ぐ否定によって自己自身の絶対に達する」はルネ・ドーマル、「わが生まれし日 亡び失せよ」は旧約聖書ヨブ記から。「おお薔薇たちの帝国」云々はルネ・シャールあたりが言いそうだと踏んでみるし、ゲイバーの店名はジャン・ジュネか。
『菊の葬列』じゃあ陰気臭い。



 映画は、作家の主体性を超えた超主体的な生き物だ。時には産みの親に噛みつく事も、白刃を振り翳して襲いかかって来る事もある。どんなに作家主体で創ろうとも、他者との間に誤解が生まれ、更に偶然が後押しするのだから、必然的に超主体的な生き物となるのだ。逆に言えば、だからこそ映画は魅力的なのであろう。
 批評における分析法は、その超主体としてせっかく脹らんだ映画の心魂をシボませ縛り付けてしまう。強引に客観化を図ろうとする余り、作品を矮小なものに落とし込んでしまうのだ。
 だがさりとて、映画との出逢い方は複雑であるから、そうそう直感だけを頼りにする訳にもゆかない様だ。


上記が誰の言葉だったか思い出せなかったが、ドグラ・マグラでわかった気がする。たぶん金井勝だ。金井勝は大和屋竺と共に気狂い役で『ドグラ・マグラ』に出演している。
2/21・19時の回・松田洋治トークショーイメージフォーラム



そーいや、なんでも「金井勝DVD-BOX」http://www.hinocatv.ne.jp/~katsu/dvd-the%20world.html)みたいのが出たらしく定価2万円。『王国』の一枚だけ欲しいんだけどなぁ…。

 宇能鴻一郎の濡れて馬なみ〜『生贄の女たち』

2月11日、円山町ラブホ街のQビルに行く。3階でビクトル・エリセの『エル・スール』を観るか、4階で山本晋也監督の『生贄の女たち』を観るかで相当迷ったが(ウソ。全然迷ってない)、後者をチョイス。デカマラ外人以外、キャスト・スタッフ共に日活ロマポ・ピンク映画系なので、これはカントクによる外注買取ロマポなんだと思い込んで鑑賞。とりあえず”カントクはサイコー!”とだけ言っておく。カントクをトゥナイト2のレポーターだと思ってる奴は全員死刑!あ、これ『下落合焼きとりムービー』の予告編のネタね。



まずはネタバレありーの『生贄の女たち』の<あらすじ>


アメリカ合衆国国防省のお役人であるハリー・リームスは外交特権でセスナ機に乗ってお忍びの来日をはたす。というのも、ハリーは交通事故でペニーが折れてしまい、妻(飛鳥裕子)の母(松井康子)に「皮付きのピーナッツ」と揶揄されてしまうほど小さくなってしまったため、母の勧めでペニーの移植手術を受けに来たのだった。早速医師(桑山正一&草薙良一)のところに行くが、動物実験では成功しているが人間に施すのは初めてと言うペニー移植手術をハリーは拒絶し帰ってしまうが、”愛”だけでは満足できない飛鳥はレストランで偶然邂逅した自分の処女を破った先輩(東てる美)とレズってしまう。その現場を目撃し、自分のときとは違う妻の激しい感じっぷりを見たことで、ビッグペニーの移植手術を決意をする。手術は無事に成功、生まれ変わったウマナミペニーとの初夜を楽しみにする妻であったが、他の女とは出来るのに何故か飛鳥とだけはできないハリー。ペニスに影響されてハリーの人が変わったようだと医師に相談するものの全く要領を得ないため、飛鳥はビッグペニーの元の持ち主である中村剛一に会えば何か解決の糸口がつかめるのではないかと彼のアパートに行く。しかしそこには中村の姿はなく、女がただ一人いただけ。しかし実はその女こそ中村剛一であり、彼は女房コンプレックスの固まりで、ペニーを提供する代わりにヴァギーを穿ってもらったニューハーフだったのだ。それを飛鳥から聞いたハリーは自分の股間にオカマの一物がついてることに何故か逆ギレして、元の持ち主の剛一のところへ殴り込みに行くが、逆にセックスを迫られやってしまう。”自分のモノを自分の中に入れるなんて世界で初めてじゃないかしら。倒錯の世界ぃ〜”と剛一が悦に入ってるところに、剛一の妻(橘雪子)が包丁を持って闖入。剛一のデカチンのためにガバマンにされ、他のチンコじゃ満足できなくなった怨みのため、剛一のヴァギーをズタズタにしてやると息巻いて。しかしそこに剛一のペニーを持つハリーがいたものだから標的は変わり、雪子はハリーを追いかけ回し、包丁をくわえながら上になって犯す。…結局、”嫉妬こそは愛の本質、はては猥褻の原点”だという桑山医師はジェラシーセックス療法を提唱し、助手草薙を当て馬として飛鳥に差し向け、それを目撃して見事興奮したハリーはようやく飛鳥との初夜を迎えることに成功するのだった。こうしてハリー&飛鳥はアメリカへと帰って行ったが、そのあと空港まで見送りにきていた桑山医師は助手草薙のつっこみによって真相を白状する。つまりハリーに移植したペニーは中村剛一のそれではなく、死んだ競走馬テンポイントのナニなのだと。この一年後、ハリーは二度目の奥さんとして牝馬をもらう。



だらだらと『生贄の女たち』についての極私的<memo>


◎『生贄の女たち』1978の企画には、黒澤満(元日活撮影所所長)、伊地智啓(元日活プロデューサー)と並んで向井寛の名前も見える。向井寛といえば、本作と同様の外科手術による人体改造映画、クリトリスを喉チンコに移植する『東京ディープスロート夫人』1975を監督したことがすぐさま思い出され、『生贄の女たち』の企画に絡んでくるとは、なにやら向井寛の業さえ感じてしまうのは僕だけか。


◎原案には田中陽造の名前が。田中陽造といえば、鈴木清順を筆頭とした「具流八郎」というキーワードから、その同胞だった大和屋竺との類似性を想起してしまう。例えば「幽霊」であるならば鈴木清順の『恐怖劇場アンバランス 木乃伊の恋』(陽造)と『穴の牙』(大和屋)であるとか、また「ピグマリオニズム」ならば『愛欲の罠』(陽造)と『大人のオモチャ ダッチワイフ・レポート』(大和屋)、「刺青」ならば『やくざ観音 情女仁義』(陽造)と『おんな地獄唄 尺八弁天』(大和屋)といったぐあいに。『生贄の女たち』(陽造)では馬のペニスを人間に移植したが、やはり『発禁 肉蒲団』(大和屋)も”メダカキノコ”とペニスの小ささを揶揄された男が犬のペニスを移植する話だった。ここでこの二作品は「獣姦的人工的奇形ペニス」で繋がる。別段シンクロニシティというわけではないのだが、このように発想の類似性というのは、例えば、荒井晴彦が『不連続殺人事件』で、大和屋竺曽根中生田中陽造(三人共に「具流八郎」として共同で脚本を書いていたメンバー)と一緒に旅館に入って映画の方向性を話し合っているとき、曽根の「『ハムレット』どうだ」という一言に、どうして坂口安吾に『ハムレット』が出て来るのかと衝撃を受けた話を思い出してもいいのではないか。荒井が知っていたのはシェークスピアだけだったが、三人は暗黙のうちに久生十蘭の『ハムレット』だと了解していたという。ようは「同じ釜の飯を食った間柄」(大和屋と陽造にいたっては大学時代から同じ映研に所属して映画を制作し、共に天象儀館映画社の社員でもある)、つうと言えばかあということなのだろうが、ちなみに荒井はこのときのことを「あれはショックだった。全然わからないこと喋ってるけど訊けない。どうしてハムレットが新潟にいるんだって」と回想している。


◎スタッフ・キャスト共にほとんどが日活ロマポ・ピンク映画系なので、これは山本晋也カントクによる外注ロマポなんだと思いながら観る。
・脚本の佐治乾は東映映画でもその仕事ぶりをよく見るが、日活ロマポでも当然傑作多数。『赤線本牧チャブヤの女』(芹明香)観てみたい。でも上映フィルムなさそう。
・助監督の高橋芳郎(「芳朗」の表記も)も日活ロマポによく関わり、フィルモグラフィを見てもきれいに「助監督」の文字が並ぶ。1973年、日活は契約助監督の社員化を推し進めたが、高橋芳郎は日活の正社員にはならず、フリーの職業的助監督であることを選んだ一人だから、その文字が並ぶのは当然なのだが、監督作では映画データベースには載らない『おんな井上麻衣2 悪魔のように』というようなAVの仕事もしている。
・『生贄の女たち』タイトルバックの疾走感のあるジャズがまことにカッコよかったので、音楽の芥川隆の名前は要チェック。イメフォで絶対観ようと思ってた『地獄のローパー』と『狙われた学園 制服を襲う』も芥川が音楽なのでこれまた秘かな愉しみ。


◎タイトルバックのジャズに乗せてスクリーンを走るのは黒いポンティアック・ファイヤーバード。この型(角目)はたぶん『生贄の女たち』1978年と同時期に発売されたばかりのもので、当時のタイムリーな風俗というか流行を敏感に取り入れてることがわかる。というか、例えばPとかのただの趣味だったりして。


◎開巻してすぐのセスナが着陸しようとするアバンタイトルで、飛鳥裕子が「わたしの主人は政府のお役人なんです」「今日は外交特権で横田基地乗り換えのお忍び来日なんです」「わたしたち秘密で日本にやってきたんです」とやりはじめたのは完全に宇能鴻一郎のパロディ。事ある事に終始「わたし〜なんです」と飛鳥がモノローグをかますものだから可笑しくて仕方ない。改題は宇能鴻一郎の濡れてウマナミ』でどうだろうか。
ちなみに「とってもウマナミ」といえば、”ウマナミなのね〜♪”という歌い出しが有名なマキバオー(*1)のED曲のタイトル。『生贄の女たち』リメイク時にはこれを主題歌に!
(*1)本名のうんこたれ蔵はチュウ兵衛から付けられたが、出会った直後の頃は「キンタマくさ男」であった。(ウィキペディアみどりのマキバオー」解説より)


◎団巌と榎木兵衛の宝石密輸団エージェントの二人が可笑しい。岡尚美の夫は宝石密輸団の運び屋で、自分のペニスに宝石を埋め込んで日本に持ち込んだのだが、交通事故に遭って死んでしまう。そうと知った団&榎木は、岡尚美と堀礼文がファックしている霊安室に入ってきて、死体のペニスを切り取ろうと棺桶を開けるがそこにペニスはなかった。ペニスはハリーに移植されたと知り、今度はハリーのペニスを斬り落とそうとする。が、それも宝石が埋められたペニスでないことがわかり、団&榎木は病院の冷凍室で難無く目当てのペニスを手に入れるのだが(それまでのドタバタは一体なんなのか…)、すぐに警察に逮捕されてしまう、という本筋とは全く関係ないエピソードが出色。人体に埋められた宝石というと中島貞夫の『戦後秘話 宝石略奪』の太ももをすぐさま想起するが、『生贄の女たち』の場合はペニスだからさらに凄い。冷凍ペニスをポキっと折って宝石をほじくり出すところも笑える。


山本晋也赤塚不二夫のギャグポルノ 気分を出してもう一度』1979には、赤塚不二夫が中出しした自分のザーメンをストローでヴァギーから吸い出すシーンがあり、それをヴァギー内部からの視点で撮っていて、このユニークなショットは山城新伍の『女猫』より四年早いと思っていたら、『生贄の女たち』の方がもっと早かった。飛鳥裕子のヴァギー内部からの視点ショットで、クンニリングスする草薙良一の舌使いをとらえている。


◎山本カントク的音楽の使い方。
・街中をファイヤーバードが走るタイトルバックには疾走感のあるジャズ
・ハリーがペニス移植手術を行うとき、手術台の電気が点くと同時にベートーヴェン「運命」
・飛鳥と東のレズシーンはポロポロと爪弾かれるアコースティックギターの調べ
・飛鳥がウマナミペニスで初めて交わろうというとき童謡「さくら」(性交失敗)
・女房コンプレックスを克服したハリーと飛鳥の性交シーンには「故郷」(性交成功)
・オカマのペニスだと知ったハリーが元の持ち主の所へ乗り込むシーンはファンク
・ハリーの手術が成功し、病院内をハリーが看護婦の宮崎あすかを脱がしながら追い掛けまわすシーンや、橘雪子がハリーのウマナミのペニスを切りとろうと(犯そうと)追い掛けるシーンは、コマ落としされ、スティーブン・フォスターの「草競馬」がコミカルに流れる。


◎キャストは(ハリー・リームスは除くとして)ロマポやピンクで活躍してる人ばかり。
ハリー・リームス…喉の奥にクリトリスを持つ女の話である『ディープ・スロート』(監督ジェラルド・ダミアノ)で一躍有名になったアメリカのポルノ男優。嗚呼、向井寛の東京ディープスロート夫人!
飛鳥裕…ハリーの妻。「奥村裕子」名義で東映映画にチョイ役で出演していたが、「飛鳥裕子」と改名して『夢野久作の少女地獄』(監督小沼勝)でロマポ、しかも主演デビュー。このときの飛鳥裕子は神々しかった!
東てる美…飛鳥の先輩でテクニシャンのレズビアン。飛鳥の処女を破った女。
岡尚美…宝石の運び屋である中村社長の妻。交通事故で夫を亡くすも、霊安室の棺桶の前で不倫相手(堀礼文)とファック。『生贄の女たち』では誰か別の女が声を吹き替えている。東映『女番長ゲリラ』(監督鈴木則文)のオナラ尼で衝撃的デビューを果たしたあと、日活、ピンクと渡り歩きながら、「丘ナオミ」「丘なおみ」「丘奈保美」「岡尚美」と名前をころころ変える人。
橘雪子…オカマの中村剛一の妻。メガネパーマでわざとブスい感じにし、本作において最高のコメディリリーフ!包丁ふりかざして闖入してきたかと思えば、そのペニスは自分の物だと主張して、ハリーのペニスを切り取ろうとする。そして包丁くわえながらハリーを犯す。これは『愛のコリーダ』(監督大島渚)をパロってるような。橘といえば、「未亡人下宿」シリーズは言わずもがなカントク映画の常連。『新実録おんな鑑別所 恋獄』などでは「南黎」名義でロマポに出てることも。
松井康子飛鳥裕子の母。ハリーのチンコを娘の目を盗んでペロッと舐めるところが可笑しい。「ピンクの山本富士子」と昔は呼ばれていた。
桑山正一…ハリーに馬のペニスを移植したとんでもない医師。”アメリカ人怖いね、サイパン島の玉砕思い出したよ”とか、トボケだかマジメだかよくわからないのが最高の持ち味(『ためいき』(監督曽根中生)とか思い出される)。そうかと思えば『密猟妻 奥のうずき』(監督菅野隆)のようなしんみりした演技も。
草薙良一…桑山医師の助手。桑山医師のめちゃくちゃぶりをいつも心配しているような男。他社制作の買取ロマポだが『下半身美人 狂いそう』(監督久我剛)では「草間二郎」名義。ピンク映画にはこの名義で出ることが多いよう。
礼文…岡尚美の不倫相手。『新宿乱れ街 いくまで待って』(監督曽根中生)では映画監督のたまご役だった男と言えばわかるか。
団巌…宝石密輸団のエージェント。東映の「不良番長」シリーズも印象深いが、日活の『絶頂の女』(監督遠藤三郎)のマンモスは最高だった。
榎木兵衛…宝石密輸団のエージェント。何故かカタコトの日本語。言わずと知れた日活の名バイプレイヤー。「木夏衛」名義もある。しかし『生贄の女たち』において榎木の馬面に一切触れないとは勿体ないの一言(例えば『必殺色仕掛け』(監督藤井克彦)を想起せよ)。
堺勝朗ピンクサロンの店長。ハリーのチンコを舐めて、”しゃぶっちゃお!しょっぺえ!”のギャグ!カントクの映画には欠かせない。買取ロマポでは『赤塚不二夫のギャグポルノ 気分を出してもう一度』のピンク映画館前にいる紳士とか。
宮崎あすか…手術前の手術室でタバコを吸う不良看護婦。『新実録おんな鑑別所 恋獄』(監督小原宏裕)での黒人との混血児役でチリチリさせた髪の毛とか印象深い。確かに宮崎あすかだが、映画のクレジットにはその名前はなく。おそらく変名で出てるのだろうがそれは不明。
中村剛一…いや、これは役名。演じている女優名が全くわからず。でもいい役だから序列では上の方に来てると思うのだけど。「長谷圭子」「春日けい」「北見麗子」のどれかか?
岡本麗…goo映画のデータベースを見ると名前があるが、実際は出演していない。

 長谷部安春『犯す!』を観て

今年シネマヴェーラで『レイプ25時 暴姦』を、昨日ビデオで『犯す!』を見直して、昔に書いた「偏愛的日活PVベスト10」にダメ出ししたくなった。まあいちおう「傾向」と念を押しているので間違いというわけではないんだが、改めて『犯す!』は「女」の映画だと主張し直すんだし、『レイプ25時 暴姦』に関しては全然映画を読めていなかったことを真摯に受け止めたい。『レイプ25時 暴姦』は恋愛映画であったのだ。これについては後日別の日記で書こうと思うが。
以下メモ書きのように、昨日久しぶりに観た『犯す!』について思ったことをだらだらと書き綴る。



◎『犯す!』を何故急に観たくなったかというと、最近長谷部安春のロマンポルノにおける音楽の使い方というものが気になっており、その確認のため。ソラリゼーションが用いられたタイトルバックで流れる音楽をずっと「ナイフを研ぐ音」のみだと誤解していたが、ジャズも流れていた。レイプシーンもほとんどジャズ。
◎長谷部ロマポにアメリカ映画の香りがするのは何故なのか。ジャズが流れるからというばかりではあるまいが、『犯す!』では夜のスーパーマーケット、『レイプ25時』では深夜のガソリンスタンドという舞台もそれを感じさせる原因だろうか。
蟹江敬三と八城夏子のファーストコンタクト、エレベーターでのレイプシーン、八城の腹を躊躇なくぼっこぼこ殴り、倒れた八城を踏みつけながらペニスを出し、八城の目の前にナイフを突き刺すのが凄絶の一言。当然突き刺さったナイフは「陰茎」、クルミは「陰嚢・睾丸」の暗喩である。
◎処女だった八城は蟹江の強姦によって破瓜される。例えば、やはり長谷部の『襲う!』で小川亜佐美がファーストレイプされたときにはバックにベートーヴェンピアノソナタ「悲愴」が流れ、小川の悲愴な心情を音楽によって表しているが、『犯す!』の八城も強姦破瓜にひどいショックを受けたと思しく、音楽は沈痛なものだし(穂口雄右)、仕事にも全然集中できない様子。そこをめざとい岡本麗が”八城さんもすみにおけないわね”などと言うので、”そんなんじゃありません!”とか言ってトイレの個室に逃げるわけだが、そこへ同僚(原田千枝子)が”お客さん(生理)が来ちゃった。あれ持ってない?”などと言って入ってくることで八城にも鑑賞者にも「妊娠」を意識させていく。腹立たしさに投げつけたりするものの(それで鏡が割れる)、何故か捨てられない蟹江が残していった二個のクルミ(睾丸)がたびたび画面に現れる。
◎課長(三川裕之)が初めての人に似てるだとか、初めての人は忘れられないものだとか、余計なことしか言わない同僚の原田。また三川も同様のことを八城に言うのだがしつこいと思う。これは八城に暗示をかける効果があるのかも知れないが、個人的にはこの手の台詞は一切必要ないと思う。暗示などは関係なく何故か蟹江に惹かれて行くのがいいのじゃないか。
◎しかし八城も強姦後すぐに蟹江に惹かれたわけではない。蟹江にやられてすぐに課長に誘われ、それを拒否するものの結局言いくるめられてやられてしまう。図書館の警備員である高橋明には”俺の情事を覗き見しやがって”的な因縁を付けられ強姦されてしまう。レイプされまくりの八城もこの辺まではペニスに拒否反応を示しているが、それが何故か急に女というか淫婦性に目覚める、そのきっかけは下半身から流れ出た経血、妊娠していないことを知ったからだ。トイレの経血を流した後、八城は割れた鏡に向かい、いままでつけたこともないような真っ赤なルージュを唇にひくのである(『オーガズム真理子』の一変種?)。
◎それからの八城は、例えば若者二人(清水国雄・影山英俊)にナンパされれば部屋までのこのこついて行き、3Pどころかアナルセックスまで体験し、道で声をかけられた土木作業員の中平哲仟には自らセックスを誘い、果てて寝てしまった中平を観て微笑んだりさえする。
◎清水・影山のシークエンスが最高だ。部屋に帰るなり、二人はジャンケンに勝った方が一枚ずつ脱いでいくという逆野球拳を始めだす。つまり先に全裸になった方が八城とセックスを先にできる権を得られるシステム。それをわかったように何も言わずに待つ八城。そして”あと何秒?あと何秒?記録出た?”と挿入時間の競争をしはじめる清水と影山。その応援や実況も可笑しいことこの上ない。大体ファックシーンというものは話が中断される感覚に陥り退屈なのだが、ここには神代辰巳の会話する濡れ場を彷彿とさせる面白さがある。神代が濡れ場に「会話」を入れて物語の流れのテンションを維持するのならば、長谷部の場合それにあたるのが「バイオレンス・レイプ」なのだろうとも思う。
◎レイプ直後はトラウマからエレベーターにも乗れず、階段を駆け上がって部屋に入るような八城だったが、淫婦性に目覚め、蟹江が忘れられないようになってからは、蟹江に犯されたときに着ていた服を着、初めて遭ったスーパーマーケットで蟹江の姿を探し、淡い期待を抱きつつエレベーターに乗ったりする。しかしエレベーターには誰も乗って来ない。
◎冒頭のレイプで八城と蟹江は接点を持ち、それ以後はラストまで二人になんの接点を持たせず、二人のエピソード、つまり八城の男性遍歴と蟹江のレイプ遍歴を併行させて語っていく構造。
◎蟹江は強姦でしか燃えることのできない性癖の持ち主である。それはレイプしようとしたはずなのに、自ら求め始めてきた谷ナオミを腹立たしげにぶん殴るシーン(谷がギャグ)からもわかる。そして強姦した相手のことをいつまでもいちいち覚えていない主義。八城を犯したあと、谷を犯そうとするも求めてきたのでぶん殴り、犬の散歩をしていた動物好きの少女(山科ゆり)には何もせずただ優しく接し、楚々とした和服美人の二條朱実を公園遊具の中で犯し、ラスト再び八城と出逢う。
◎女にはあれほど暴力的であるにもかかわらず、自分の飼っているリスや動物にはやさしい。リスに噛まれてもニコリとして許す。
◎ラストに偶然の再邂逅を果たす八城と蟹江。”これあなたのでしょ”と二個のクルミを蟹江に差し出し、”探したわ”とか”もうあなたから離れない!”と言うが、それを疎ましく思った蟹江は殺すつもりでトラックで林の中へ。揉み合いとなる二人、ナイフは蟹江の腹に。最後の力を振り絞り八城に向かってナイフを投げつける蟹江だったが、無情にもナイフは木に刺さるだけ。『マル秘女郎市場』の片桐夕子ならば、”あたしの体で生き返らせてあげる”と益富信孝を屍姦するところであるが、もはや虫の息の蟹江の上に乗って嬉々としてファック(犯す!)をする八城には男の生死などは問題でなく「精子」のみが重要のように見える(全編に「妊娠」に関するキーワードが鏤められていることから)。人間が死んだときに一番最後まで生きているのは精虫であり、よって理論上、屍姦妊娠だってありうるのだ。また、経血、真っ赤なルージュと、男を襲い精を奪う夢魔スクブスを思い描けば、これを吸血鬼映画の一種としても観られるのではないか。『襲う!!』にも顕著であるが「犯し−犯される」という関係はいつでも置換が可能なのだ、八城の腰使いでトドメをさされた蟹江の死は、直前に蟹江が投げたナイフが木からぼとりと落ちたことでわかる。エンドマーク。
◎前ロマポ時代(日活ニューアクション時代)は、語弊を恐れずに言えば、長谷部安春は元より「女」を描く必要はなかったが(梶芽衣子が絶対的な主演作である日活PV『野良猫ロック セックス・ハンター』は言わずもがな、東映PVの『女囚さそり 701号怨み節』でさえ田村正和の物語になっている)、女性上位のロマポ時代になってからのフィルモグラフィを眺めると、その葛藤と言おうか、その歩み寄りの姿勢が興味深い。
『戦国ロック 疾風の女たち』『すけばん刑事 ダーティ・マリー』『犯す!』とロマポ1〜3作目は、田中真理、梢ひとみ、八城夏子の、ちゃんと「女」を描いたドラマになっていたのに気づかされる。
『犯す!』のヒットにより、ロマポでもこれからは何でもありの監督の地位に昇格(?)したのか、もしくは桂千穂と運命的な邂逅をはたしてしまったからか、4〜5作目の『暴行切り裂きジャック』『レイプ25時 暴姦』では、林ゆたかが女どもを次から次へと殺しまくったり(桂千穂に言わせれば裏返された女性賛美)、高橋明などのホモたちが命がけの追いかけっこをする、もうトンデモないとしか言いようのない「男」臭い映画を連発し、バイオレンスポルノの大家というポジションを決定づけてしまった。
6作目の『マル秘ハネムーン 暴行列車』では一転してニューシネマをやり、「男」2人と「女」1人の共同体的関係を描いた。
7作目の『襲う!!』では小川亜佐美の成長(性長)記をやり、また「女」を描いた。
8作目の『エロチックな関係』は未見なのでなんとも言えず。
そして長谷部ロマポの最後となる9作目『暴る!』においては、もはや「男」も「女」も描いてないような気さえするのだ。



八城夏子 ヤシロナツコ (八城夏子)
蟹江敬三 カニエケイゾウ (男)
三川裕之 ミカワヒロユキ (高井)
岡本麗 オカモトレイ (ユキ)
高橋明 タカハシアキラ (島)
北上忠行 キタガミタダユキ (クリーニングの男)
谷ナオミ タニナオミ (温室の女)
二条朱実 ニジョウアケミ (和服の女)
山科ゆり ヤマシナユリ (ジーパンの娘)
清水国雄 シミズクニオ (若者)
影山英俊 カゲヤマヒデトシ (若者)
中平哲仟 ナカヒラテッセン (労務者)
森みどり モリミドリ (夏子の同僚)
原田千枝子 ハラダチエコ (夏子の同僚)
田畑善彦 (管理人)


『犯す!』のキャストをgoo映画からコピペしたものだが、役名がかなりいいかげんなので勝手に訂正しておく。
八城は図書館勤務。蟹江はトラック運転手。三川は八城の上司。岡本は八城の同僚。高橋は図書館の警備員。北上は「クリーニングの男」(なにそれ?)ではなく蟹江の相棒でやはりトラック運転手だろう。谷から中平まではその通り。森みどりは「夏子の同僚」ではなく、トラックの中で北上相手に商売するパンスケ。原田はその通り。田畑は「管理人」ではなく、二條が蟹江にレイプされたのを目撃し、蟹江を捕まえるため追いかける役なので警官なのだろうか。

 偏愛的・日活ピンキーバイオレンスBEST10

以前に1970年代の「東映ピンキーバイオレンス」についてやったが、今回はその同時代に狂い咲いたもう一方の雄、「日活ピンキーバイオレンス」の偏愛的ベストをやりたいと思う。大体「東映PV」という定義からして曖昧なものなのだ。言わずもがな勝手に作った「日活PV」などという胡散臭いジャンルのそれも輪をかけて不明瞭。70年代というと日活は「ロマンポルノ」時代に入っており、「ピンキー=おっぱい」の部分は申し分ないし、ここではその中で特に「乾いていて、硬い、暴力感覚」が横溢しているものを選べばいいということになる。もちろん暴力という面では、ロマンポルノにおいて最も大きな勢力だった「SM」というジャンルもあるが、暴力の質、また目的において「PV」とはその性格を異にすること言うまでもない。


01.『野良猫ロック セックスハンター』1970/長谷部安春/大和屋竺・藤井鷹史

野良猫ロック」シリーズの最高傑作であることを疑わない。脚本は大和屋竺で、例えば渡辺護監督が『おんな地獄唄 尺八弁天』のホンを読んだとき、これは自分への大和屋からのラブレター、また続けて大和屋は監督に合わせて脚本を書いているのだろう、と言っていたのが非常に興味深いが、もしもそれを信じるならば『セックスハンター』の脚本はまさに長谷部のために書かれたラブレターであろう。そう思わせるほど、この映画は長谷部安春(藤井鷹史)と大和屋竺の硬質感が見事に合致し、それが映画を見事なまでに累乗的に良くさせている。
彼らは決まってぶよぶよしたものが嫌いである。それは女であり、その肉体である。もっと言えば彼らはその生温さ、湿り気を憎む(大和屋竺の他作品を想起せよ。特に『大人のオモチャ ダッチワイフ・レポート』は女性憎悪の極致)。「やっぱり女は汚えや」と藤竜也に言わしめる彼らの女性憎悪(裏返された女性憧憬)、故にあの過剰なまでに美しい硬質的な暴力感覚。一見、梶芽衣子が絶対的なヒロインに見えるが、実際のところこの映画の隠れた主役は「男」たちなのだ。特にここでの混血児(大和屋に言わせるならば「革命児」)安岡力也のハードボイルドさは最高の仕事として異論をはさむ余地もない。
それでも梶芽衣子の魅力的なこと、確かにそれは認めるものの、例えば『おんな地獄唄 尺八弁天』の香取環然り、長谷部ロマポのヒロインたち然り、俳優序列では主演の彼女らも実のところは商業的なアリバイに過ぎぬことが多い。それは長谷部作品に限ったことではなく、これから後述するラインナップを見ても一目瞭然だが、東映PV」ではちゃんと建前も本音も「女」の物語になっているのに対し、(あくまで僕の選ぶ)「日活PV」では「女」は建前であって、本音は「男」の物語になる傾向が強いのである。例えば70年代の「東映PV」と「日活ロマンポルノ」の女優を比べたとき(その後の彼女らの女優活動等を考えてみても)、女優王国と謳われた日活が質量ともに勝っていたことは間違いない。ただ、これが「東映PV」と「日活PV」の比較となると話は変わってくる。この場合は明らかに東映の方が女優の層が厚いのだ。東映PVには絶対的なシンボル池玲子杉本美樹がいた、衣麻遼子をはじめ脇も安定していた。が、こと「PV」というジャンルでは彼女らに比肩しうる女優が日活には圧倒的に少なかったのである。語弊を恐れずに極論すれば、濡れた官能美なるものはオハコであっても、乾いた暴力感覚を表現でき、またそれが容姿ともにピッタリ嵌るだけの女優がいなかったのである。まあ、それが「日活PV」が「男」のドラマ化した原因であるか結果であるかは僕にはわからないけれど。


02.『レイプ25時 暴姦』1977/長谷部安春/白坂依志夫桂千穂

”ベスト10には同じ監督の作品を二つ以上入れない”という自分ルールを破ってまでも絶対ランクインさせねばならぬ長谷部ロマポの大偏愛作。実質『野良猫ロック セックスハンター』と並んで順不同の一位。大体この偏愛的ベストは、下手すると『暴行切り裂きジャック』『すけばん刑事 ダーティ・マリー』『犯す!』など、長谷部ロマポばかりになる危険性(?)を孕んでいるのです。
それはともかく、いままでこんなに伊達男な石山雄大を見たことがあるか?!真っ赤な上着をクールに着こなし、どことなくキザで、粋で、大人で、都会的で、もちろん暴力をふるうが、例えば蟹江敬三とはまた違った手際のよさで次々と女を犯しまくる。蟹江敬三とは『犯す!』のレイプ魔であり、このときの蟹江敬三は、暴力感、荒々しさでは遙かに石山雄大の上を行っていたが、その風貌はどことなく田舎者のようであか抜けず、動物にしか心を許せない幼児的な一面も持っていた。同じレイプ魔でもこの両者はタイプが違うというわけだが、両映画では女の扱い方も全く違っていた。女の扱い方とは、女のドラマ性を重視しているかどうかということで、『犯す!』の方は物語が進むにつれて、そのスポットライトは男である蟹江敬三に取って代わり、蟹江にレイプされた八城夏子のドラマ性に重点をおいてあてられてくる。一方、『レイプ25時 暴姦』では終始男の側にあてられる。そう、これは究極の男のドラマ、かつ男色のドラマであって、そこに恋情なるぶよぶよしたものはなく、そこにあるのは即物的な肉の欲望のみ、物語は常に犯るか犯られるかなのである。男嫌いの石山雄大のオカマを掘るべく迫るアナーキーで超暴力的なホモ三人組(特に高橋メイさん!)は出色。長谷部安春の真骨頂、その硬質的な、暴力描写の濃度には脳がズキズキしてくるのを覚えるようだ。ここに流れる血は「PV」のそれとは違う、それはアナルチックな薔薇色の血、これは「ロージー・バイオレンス」と言うべきものなのだ。そして最後に付け加えると、羽毛が舞い散る中での山科ゆりのレイプシーンの美しさは奇跡に近い。


03.『スケバンマフィア 肉刑』1980/池田敏春/熊谷禄朗

「肉刑」と書いて「リンチ」と読ませる池田敏春の監督デビュー作。巨大組織スケバンマフィアに殺された友達の復讐のため女子高生が一人立ち向かう。本音建前ともにきちんと「女」の子の物語になっている「日活PV」、不良少女物の秀作。『天使のはらわた 赤い淫画』でも度肝を抜かれたが、同様の、画面に横溢するヒリヒリするような暴力感覚、リンチ、レイプシーンなども魅せる。主人公の倉吉朝子とマフィアボス渡辺とく子とのラストは必見!とにかく男映画がずらりと並んだ中で倉吉朝子はひとり気を吐いたというか物凄く素晴らしい。敵に屈し、その失意の後の倉吉朝子の復活も然り、女子高生二人と一人の青年によるセックスから始まった関係と微妙な心情の変化も然り、なんだかいちいち偏愛ポイント高くて胸キュン映画としても観られる。『キル・ビル』のジュリー・ドレフュスは、本作の鹿沼えりからのいただきではないかと思ってます。


04.『実録おんな鑑別所 性地獄』1975/小原宏裕/桃井章・小原宏裕

お約束の女囚物で、また小原宏裕監督の「実録おんな鑑別所」シリーズで最も完成度が高いのが本作かと、いわば「日活PV」の正統。というのも何より主演の梢ひとみの存在がデカい。東映の池や杉本に比肩しうるPV女優が日活には少ないと前述したが、容姿・雰囲気・佇まいにおいて、ただ独り彼女らと対等たり得たのは、日活では梢ひとみだけだと激しく思っている。女囚服を腰巻きしおっぱい出して仁王立ちしている梢ひとみを想像してごらん!それだけでもなんと様になることか。梢ひとみ主演の、長谷部安春『すけばん刑事 ダーティ・マリー』などはPVの文句なしの正統だし、澤田幸弘のPV『暴行!』も悪くなかった、同シリーズ『新・実録おんな鑑別所 恋獄』のタイトルバックなどは最高だ、また未知の主演作では『肉体犯罪海岸 ピラニアの群れ』『番格 女子高校生のSEXと暴力の実態』なども面白そう、それなのにいまいち日活PV女優として神格化されないのは、世間的に有名なPV主演作が梢ひとみにはなかったからであろうか?そのPVに対するポテンシャルは池や杉本以上であったにもかかわらず。梢ひとみは主題歌「煉獄ブルース」だって歌えるのにな。
本作ではPVがよく似合うひろみ摩耶が凄まじい最後を見せ、芹明香高橋明トルコ嬢とヒモのコンビも最高。


05.『濡れた荒野を走れ』1973/澤田幸弘/長谷川和彦

山科ゆり演じる女子高生と逃避行だなんて、まさに男の夢が爆発したかのような「男」視点の羨ましいドラマ。山科ゆりが光る!あと、人の嫁には手を出す、容疑者には性的取り調べをする、と、やりたい放題のメイさんが、ドジすぎて、微笑ましい。


06.『やくざ観音・情女仁義』1973/神代辰巳/田中陽造

かつての日活ニューアクション俳優・岡崎二朗が主演なのが感慨深い。田中陽造の世界に出会ってしまった血飛沫アクション?
『やくざ観音 情女仁義』を読むための「桜姫東文章」を参照。
http://d.hatena.ne.jp/migime/20090201


07.『愛欲の罠』1973/大和屋竺/田中陽造

厳密には「天象儀館」製作のいわゆる他社ロマポ。一角座でハマって観まくりました。『ピストルオペラ』で延髄に銃弾を撃ち込むジュリーと言ったらいいか、とにかくそんな空気銃の殺し屋櫻木徹郎荒戸源次郎の出逢いがサイコーなのです。


08.『美女のはらわた』1986/ガイラ/ガイラ

ガイラ版『みな殺しの霊歌』。これまた「六月劇場」製作の他社ロマポだが、もはやモンスター系のブラッディ・バイオレンス。主演の小沢めぐみが血塗れの怪物に変身して男どもを…。何故かエイリアンみたいなチンコも生えているのだが、シメはそのオマンコで吉沢健を…。
日本映画嚆矢シリーズ(?)として、殺人鬼物の『処女のはらわた』や、和製ジャッロとでも呼びたい猟奇スリラー『ズームイン 暴行団地』と迷ったが、いちおうピンキーというかブラッディな女の子(?)が活躍するので『美女のはらわた』を。


09.『色情旅行 香港慕情』1973/小沼勝/中島丈博

「香港へ行ってどうしようってんだ!」という井上博一の叫びに全て集約されている。三木のり平の『お熱い休暇』がバンコク旅行の片手間に撮られたものならば、こっちは単なる翌年結婚する小沼勝と片桐夕子の婚前旅行だろうが!と思わずツッコミを入れたくなる。片桐夕子は香港ではワンカットしか出演ないしなぁ、あとは日本のセット撮影だろうしなぁ。などと言ってみるものの、香港の風景はきちんと撮られていて、映画としても申し分ない。井上博一とやかた和彦の関係に同性愛的なものを感じさせる「ロージー・バイオレンス」。小川節子も結婚したいほど可愛い。


10.『黒い牝豹M』1974/蔵原惟二/宮下教雄・中島絋一

東映PVの女王・池玲子の唯一の日活出演作(珍)なのでオマケでランクイン。ロマンポルノ(成人映画)と思われがちだが、実際は一般映画のようで、池のおっぱいは出るけど、濡れ場がないのはそのためと納得。女殺し屋・池玲子が幻の殺人拳を駆使する空手アクション。まあ、拳にほとばしりはあまり感じられませんが、池VS高橋明の空手とか、なかなか観られないレア対決です。ちなみにこの映画の製作前の仮題は『ザ・くノ一』、池が演じた役は空手に加え、超能力を使う秘密諜報員という設定だったらしい。


次点としては、渡辺護『制服処女のいたみ』の美保純の躊躇なき暴力、カッコ良さも捨てがたく、また、こちらは「男」臭そうな気がするがジョージ・ハリソン好きとしては『セックス・ハンター 濡れた標的』を観れば、また順位が変わりそう。

 疫病流行記

migime2009-02-03


デビュー作の『スケバンマフィア 肉刑<リンチ>』でも度肝を抜かれたが、カメラアングルや動き、構図に対するこだわりはいちいち偏執的で、本作はデビュー作以上の傑作かも知れず、なにより画面に横溢するヒリヒリとした暴力感覚が肌で感じられ、初期の池田敏春はとんでもないかも知れない。泉じゅんは泉じゅんで、デビュー作『感じるんです』でも見せた舞踏オナニー、本作はそれ以上の凄味迫力。こたつの足を使ったオナニーはもはや伝説か。さらにオナニーで言えば、伊藤京子のそれもまた凄く、コンドームに生タマゴを入れ、それをあそこにねじ込む、そして鉛筆を三本手に取り、それをさらに奥へと突っ込む。膣内で破裂する生タマゴ、流れ出る黄身と白身卵子とザーメンが混じり合ったとでも言いたいのか。女陰にタマゴを入れるといえば、すぐさま想起されるのが仏蘭西で制作された大島渚愛のコリーダ』のワンシーン、そして映画ではないがやっぱり仏蘭西の作家ロード・オーシュ『眼球譚』にも同様のエピソードが。仏蘭西語で「玉子」と「目玉」はほぼ同音だそうだが、すると伊藤京子が女陰に入れたものはすぐさま目玉にも変換する。鉛筆でしこたま突かれ膣口からドロリと流れ出たタマゴの白身は、いったい誰の硝子体液なのか。
丸尾末広『笑う吸血鬼』1998での外男のオナニーシーン、その最中、外男の妄想は存在感ある女を目の前に現出させる。本作でもこれと同じようなシーンがあり、泉じゅんのビニ本「赤い淫画」をおかずにする阿部雅彦、その妄想的オナニーの集中の果て、ビニ本から飛び出して来たかのように目の前に現れる泉じゅん。余談だが『笑う吸血鬼』の外男オナニシーンでのちぎれた指、早見純のパロディでないかと密かに思っているが定かではない。
寺山修司×丸尾末広の新作画「疫病流行記」が池の下にアップされたので忘れずチラシを取りに行くこと。極私的備忘録まで。『天使のはらわた 赤い淫画』についての戯れ言は丸尾末広研究に関する枕のようでいて枕ではない、ただの空白の穴埋め。

 <ソイ・ミギ(わたしはミギメよ)>〜『ミツバチのささやき』

昨晩、渋谷のユーロスペースビクトル・エリセミツバチのささやき1973を観て以来、アナ・トレント(7歳ぐらい)のことが脳裏からはなれず、彼女はすでに精霊のようなものであり、<ソイ・ミギ>と唱えればいつでも彼女と交信できると信じる、ほど僕はもう子供ではなくなってしまったが、その呪文を唱えながらgoogleANA TORRENTの画像検索ばかりしている。


僕も小学校にあがるかあがらぬ頃に幽霊を見たことがある。雨が降った後などは決まってヤスデダンゴができるような和泉多摩川のボロアパートに住んでいたとき、両親の間にはさまれて川の字で寝ていたが、ふと夜中に目が覚めて、上半身だけ起こしベランダのガラス戸の方を見遣ると、長い黒髪で白いシーツのようなものをまとった、まんま幽霊然とした女が立っていたのだ。季節ははっきりと覚えていないが、ガラス戸にレースのカーテンのみかかっていたところから夏だったのかも知れぬ、仄かな外光を背にして、顔は髪の毛に隠れてわからなかったがその女がこちらを凝視しているのはわかった。それからどうなったのか全く覚えていない。それが現実だったのか、ただの夢、または幻視の類だったのかも今となっては判然としないが、そういう記憶だけは今でもありありと思い出せるのである。


つまるところミツバチのささやきとはそんなような映画なのではないだろうか。巡回上映でボリス・カーロフの『フランケンシュタイン』を観たアナは、映画の最中も姉イザベルに子供特有のどうして?なんで?攻撃をする。それはベッドにまで及び、なんで仲良く遊んでいたのに怪物は少女を殺し、怪物は殺されてしまったのかと、まばたきもせず(素晴らしい)、姉を直視しながら聞こうとする。眠くて仕方ない姉は、少女と怪物は死んでいない、映画の中の出来事だからとめんどくさいように答える(アナとは対照的に姉は「虚構」と「現実」の分別がついている)。さらに怪物は精霊であり、<ソイ・アナ>と呼びかければいつでも出てくる、村のはずれの廃屋に夜に行けばいると。そんな姉の言葉を信じたアナは昼間ばかりでなく、夜にだって寝室を抜け出して廃屋に行くようになる。ある日、姉のまるで怪物に殺されたかのように見せかけた死に真似にショックを受けたアナは、姉にさえ心を閉ざし何も喋らなくなる。焚き火を飛び越える年長の子供達を尻目に、じっとその様子をうかがうアナ。例えば精神的肉体的苦痛を伴う通過儀礼を経て大人と認められる場合があるが、焚き火越えは子供達の一種のイニシエーションであり、両親は言わずもがな、親しかった姉さえも「子供」を飛び越え、アナとは違う領域に行ってしまったのだ。ここで決定的にアナの唯一の心の拠り所は<ソイ・アナ>の呪文によって召喚されるフランケンシュタインの怪物(精霊)だけになってしまった。そこで映画的奇跡と言おうか、精霊は廃屋に具現化した姿を現す、足を負傷した脱走兵だ。まるで『フランケンシュタイン』の怪物と少女の関係の二人。リンゴを始め、甲斐甲斐しく脱走兵の世話を焼くアナ、アナに手品を見せて喜ばす脱走兵、心を通わして行く二人(なんだか書いてて泣きそうになる…)。しかし脱走兵は軍の兵士により始末され、アナは脱走兵の死を、脱走兵にあげたはずの懐中時計を父が持っていたこと、そしてその廃屋に残された脱走兵の血によって知る(脱走兵の死体は『フランケンシュタイン』が上映された会場に手術台然としたベッドに横たえられるのだ!)。その廃屋で父に会ったことから、精霊を父が殺したかのように思い込み、父の制止も聞かず、荒野にひとり走り去るアナ。夜になり、真っ暗い森の中を彷徨うアナ、キノコを手に取りそうになるショットなどは、あまり伏線になってない父の毒キノコ講義が思い出されドキドキしたり、池のほとりで水面を覗き込む行為さえそわそわした。するとそこに突如現れるフランケンシュタインの怪物、その顔は何故か父の顔である。こういうのは精神分析学的にいろいろな解釈の余地がある。これまでもたびたび挿まれていた『フランケンシュタイン』の映像だが、確かこの映画では怪物は少女を水の中に落としてしまったと思うが、『ミツバチのささやき』ではその場面は挿まれていない。が、もしや父の顔した怪物がアナを池に落としてしまうんじゃないかとまたもやドキドキしたが、次の瞬間、僕が幼少の頃に幽霊を見たときと同様、気がつくとアナは周りに池などなさそうな場所で目を見開いたまま横たわっていた。保護されてからも誰とも口をきこうとしないアナ。食べ物も受け付けず衰弱しているという医師と母のやりとり。しかしそんな心配する大人達をよそにアナは夜中にむくりと起き出し、水を口に含んだかと思うと窓辺に近寄り、自分が唯一心を通わせられる相手を呼び出すために<ソイ・アナ(私はアナよ)>と呪文を唱えるのだ。−FIN


アナが可愛いとか、風景がきれいとか、映像詩がどうとかこうとか、僕らは大人だから悠長に素っ頓狂なことを言ってられるが、子供が(仮に寝ないで)全編観たならば間違いなくトラウマ(死生観)を植え付けられそうだ。それが子供らに対する善意からだか悪意からだかは知らないが、第二のアナを作り出そうというたくらみが垣間見られ、フランケンシュタイン』を観て感化されるアナ→そんな『ミツバチのささやき』を観て感化される現在の子供達という逆流する入れ子構造を形成する怖ろしいような映画。


アナの子供視点による物語が主であるが、サイドストーリー(?)のように大人側の視点で父や母のエピソードも挿まれる。
例えば、ガラスの巣箱のミツバチの研究に没頭している偏屈な父。実は彼らの家の窓枠自体がまるでミツバチの巣のような形をしていて、ガラス巣箱のミツバチは彼ら家族の何らかの暗喩なのだろう。原題の『El Espiritu De La Colmena』は「蜜蜂箱の精霊」という意味らしいが、フランケンシュタインの怪物(精霊)が父の顔だったところからも、父がこの映画のキーポイントなんだろうなとは思うがその辺についてはよくわからず。
母は手紙狂(?)で昔は父に、今はどっかの兵隊に手紙を書いている。それを自転車で汽車のポストまで入れに行くワンカット撮りがひどく素晴らしい。
テクニックといえるのかどうかは知らないが、廃屋をとらえた画面は動かず、アナの服装とカバンの有無だけで時間の経過を表すショットも印象的。
あとあまり大きすぎずにユーロぐらいのスクリーンサイズがちょうどいいのだが、荒涼としたスペインの風景や街並み、機関車の轟くような走りは、やはりスクリーンで観るに限る。この感動はテレビの画面では味わえない。
どこまでも伸びる線路のショットには思わず『マル秘ハネムーン 暴行列車』1977の開巻とラストを、八城夏子を想起してしまった。
もう一度ユーロで観ようかしらん。2/6までレイト上映。
memoまで。